2005年3月の雑記帳


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3月24日(木)
ベストなき対策

 指令室、電車の表示消えた 地下鉄七隈線(朝日新聞・福岡、3月19日):2005年2月に開業したばかりの福岡市営地下鉄七隈線が、地震発生当時に起こしたトラブルの話題。そうはいっても、昨今やたらに目立つ“信じられない事故”という類のものではありません。もっとも、この記事には乗務員の説明がくちづてで伝わり「地震なんだとわかった」という。車内も落ち着きを取り戻したとあり、乗客に対する適切なアナウンスメントが行われなかった点が気にかかりますが。

 想定外の、しかし実は単純な原因によるトラブルが起きてしまうのは、どのような場合にもありうること。ある業界のように「絶対に安全です」などと説明されても、絶対の信頼を寄せることはできませんし、ベストを求めても意味があることとはいえますまい。対応マニュアルを適切に運用できる体制を整えるとともに、想定しうる事態を積み上げていくことが肝心。

 私は今月に行ってきた旅行の際に、七隈線にも乗ってきましたが、各駅ともユニバーサルデザインに基づく規格化された駅構造になっているために迷いにくく、エスカレータの配置なども親切と感じました。バリアフリーに対応しているからそれでいい、といった設計になっている駅が多いだけに、気楽に駅を利用できる設計はうれしいものです。

3月22日(火)
旧加悦鉄道2号機関車をめぐって

 国重文:平安宮豊楽殿跡出土品など9件を指定へ−−文化審答申(毎日新聞・京都、3月19日):「2号機関車」として知られている123号蒸気機関車(以下、2号機関車)が、重要文化財指定の答申を受けたニュース。123号という車両番号は鉄道院時代のものですが、保存状態が良好で改造などの変更が少なく、非常に大事に扱われてきた貴重な存在です。交通博物館に保存されている、150形式蒸気機関車(通称、1号機関車)が重文指定を受けるいっぽう、こちらには声がかからず、今にいたるまで鉄道文化財の話も聞かれない――こちらは、ここ20年ほど凍結に近い状態でしたが――というありさまだったのは、加悦谷という地方でひっそり過ごしていたためにスポットが当たらなかっただけではないでしょう。

 しかし、裏をかえせば、民間が主体となり、貴重な文化財の保存につとめてきた、好例であるともいえます。わが国における文化財保存は、行政による指定まずありきというケースが少なくありません。美術品については独自の評価基準ができていますし、寺社関連であれば宗教施設ということもあって比較的保存が容易でしたが、一般的には、収益に直結する形で文化財を観光事業にリンクさせないかぎり、民間ベースでの保存は難しいものです。ところが、所有者である企業、そしてサポーターとしての鉄道ファンがタイアップして維持されてきたわけです。同様の例は大井川鉄道などでも見られますが、資金調達などの課題が多く、軌道に乗っているケースはさほど多くありません。後世に残すべき貴重な遺産を守るべきコストをだれが負担するべきかは難しい問題ですが、遺産の重要性をより強く認識する個別の市民が、それぞれに応じて負担するというのが理想の形態でしょう。これをどのように継続していくかが、鉄道にかぎらず、ややもすれば失われがちな文化財の保存にとって、重要なことといえます。

 かくいう私も、加悦を最後に訪れたのはもう15年以上前で、廃止された旧加悦鉄道の駅舎と敷地をそのまま「加悦SLの広場」として公開していた時代のこと。高校生だった当時、蒸気機関車などには大して興味を抱かなかった私でも、文明開化を体現した生き証人にぺたぺたと直接触れることで、独特の感慨を抱いたことを、今でも覚えています。蒸気機関車というと、シロクニだのデゴイチだのといったマッチョマンを連想していたのですが、2号機関車を目にしたとき、老雄に対して失礼ながら“かわいい”とも思ったしだい。東京から訪れるにはなかなかつらい場所ではありますが、いま一度、2号機関車に対して触れてきたいものです。

 なお、毎日新聞記事には東海道線などを走った後、1926(大正15)年に加悦鉄道に移り、56年の引退までに30万キロを走った。(中略)現在はカヤ興産が所有し、SL広場(加悦町)に展示されているとありますが、カヤ興産は、加悦鉄道が1985年に商号を変更したものであり、同一企業ですので、念のため。2号機関車は、同社が運営する加悦SL広場にて保存・展示されています。

3月21日(月)
残していくもの、残っちゃったもの

 本日の更新では、1950年代と1960年代のハードウェアがタイムスリップしてきたような駅を2つ取り上げました。富山地方鉄道には、素直な意味で個性的な駅舎が多く残っており、建物としての個性そのものにはいささか乏しい2駅ですが、地方における鉄道の地位が大幅に低下している現状では、保存されてきたというよりはむしろ、放置されてきた結果と見るべきでしょうし、寂しいことこのうえありません。もともと周辺人口がかぎられている早月加積はともかく、電鉄魚津は掘り起こし自体は可能でしょうが、もともと駅が高架上にあり、大改造は現実問題として厳しい。現状では、ゴーストタウンならぬゴーストステーションと化しているうえ、1階から3階まで暗い階段を延々と登らねばならないのはたいへんですし、空き部屋だらけと思われるので穴を開けてエレベータでも付けたいところですが(おそらく構造上無理ですが)。

 こういう格好で“残ってしまった”駅。炭鉱跡地にあるホッパの残骸のごときものですが、かといって産業遺産として注目すべきものでもありません。しかし、だからこそ、こういう駅に目が向いてしまうのは、やはり訪問者だからなのでしょう。毎日こういう駅を使う立場になると、やはり困りものと思うはず。でも、訪問者だからこそ、楽しめること、見られることがある。そんな風に、お気楽に考えております。

3月20日(日)
国内鉄道再完乗

 3月19日、東京モノレールの羽田空港第2ビルから羽田空港第1ビルまで乗車し、もって国内の全鉄道完乗を再達成しました。発車してカーブを描いたと思ったらもう次の駅で、余韻も何もあったものではなかったのですが、ともあれ、ひとつの区切りになったかな、といったところです。まもなく「愛・地球博」会場内の乗り物も走り始めますが、こちらには足を運ぶつもりはないので、完乗タイトルもすぐに消し飛んでしまうのですが、こういう「無意味の意味」を求めるような行為そのものは、往々にして不合理な阿呆らしさと背中合わせである宿命にあり、それゆえに愉しいものだと思っておりますし、テンションを適度に維持するための尺度として「国内鉄道完乗」というのを、今後も維持していきたいと考えています。国内全駅乗降は、おそらく一生かかっても可能かどうかわかりませんから(大規模な事業体再編により、これまでの記録が一瞬でリセットされる可能性も高いので)。

 本日の更新では、年期ものの木造駅舎としては大関クラスの存在感を示す、大隅横川と嘉例川を取り上げました。知名度では嘉例川のほうが上のようですが、駅舎の構内とのバランスを考えると、私は大隅横川のほうが好みです。いずれにせよ、地元の人の手入れによって、現在もきれいに使われている点が、たいへんうれしいところ。老朽化が進み、化け物屋敷同然となっているタイプの“旧型駅舎”も少なくない中、今後も維持されていくことを、切に望みます。

3月19日(土)
やっと帰還

 前回の更新で触れた旅行から戻ってまいりました。例によってノートPCを携行したものの、これが途中で壊れてしまい、デジタルカメラで撮影したデータのやり場に困るといったトラブルがありましたが、まずは大過なく帰ってくることができました。荷物の総重量がすごいことになってしまいましたが(量ってみると25キロを超えていました)、それでも旅先では意外と体力が続き、峠越えを繰り返す程度のことが苦にならなくなるのですから不思議なものです。

 今回の旅行の主目的は新線の落ち穂拾いで、寝台特急「はやぶさ」で九州入り、九州新幹線と肥薩おれんじ鉄道に乗車→博多で七隈線乗車→筑豊で西鉄から筑豊電鉄への移管区間に乗車→京都で地下鉄延長区間に乗車→名古屋であおなみ線・地下鉄延長区間・リニモ乗車→福井でえちぜん鉄道乗車、となりました。この途中、肥薩線などのおもしろそうな駅を回ったり、休止まぎわの菊水山に立ち寄ったりと、いろいろな駅に乗り降りしていきましたが、本日は、ひとまず菊水山駅の更新にとどめておきます。明日以降、今回の旅行で乗り降りした駅に触れていくとともに、各線区ごとの思い入れなどを書いていこうと考えております。

3月6日(日)
中規模奇行

 本日から2週間弱のあいだ、旅行に出かけて参ります。「最長片道切符の旅」を実行して以来の規模となりますが、九州新幹線をはじめとした新線のフォローが中心となるため、いまひとつ焦点の定まらぬ曖昧模糊たる紀行になりそうですが、もともと実行主そのものが曖昧居士にして不鮮明きわまりない存在であるゆえの必然、ということにしておきましょうか。これだけまとまった時間を確保できる機会はあまりないので、日のあるかぎり、いろいろなところへ足を延ばしたいと思っておりますが、以前に比べて体力も落ちているでしょうし、あまり無理は利かなくなっているかもしれません。それでも荷物が大きく、かつ重くなってしまうのも困ったものですが…。

 これに伴い、弊サイトの更新が不定期となります。宿泊先によってはネットワーク接続環境を整備しているところも多く、携帯電話からアクセスすることも可能ではありますが、もろもろのアクションはワンテンポ遅れるとお考えいただければ幸いです。

3月5日(土)
ヤマ起こし

 憂楽帳:忘れられた金山(毎日新聞、3月4日):2月13日の本欄でも触れましたが、日本はさまざまな天然資源を備えた標本のような国であり、かつては各地で多様な鉱山が稼働しておりました。その1つ、高玉金山の知名度が低いことを取り上げた話題。

 石見大森銀山が世界遺産に名乗りを上げたことで注目を集めていますが、このほかにも、佐渡の金山、生野の銀山、別子の銅山など、多くの大鉱山跡地が観光地として再生を図っています。しかし、もともと山間部にあり交通の便が悪いところが多く、鉱山以外の産業が定着せずゴーストタウン化しているところも目立ちます。アミューズメントスポットとしてはそれなりの質のものを提供している一方、採算がまったくあわず危険な状態に陥ってしまった、夕張・石炭の歴史村のような例もあるだけに、知名度が上がるだけでどうこうなるものではないのが現実でしょう。

 黄金の国とまではいいませんが、キラキラ輝く金属をたくさん生み出してきた国の歴史を後世に残すためにも、こういった分野への関心が高まってほしいと思うのですが、鉱山関連の話題は旅好きの人の中でもあまり出てこないのはなぜでしょうか。

3月4日(金)
専制君主の責務

 どこのニュースを見ても、コクド前会長・堤義明氏の逮捕ばかりが目立ち、少々うんざり気味です。“西武王国”の崩壊云々、あるいは堤家という特殊社会の病理、そうといった切り口が多く、“Xデー”に備えていろいろな原稿や資料をそろえておいたことがうかがえます。日本有数の資産を個人(いや、このケースでは家ですか)レベルで保有してきた企業グループであったがゆえの、部外者には理解できないことがボロボロ表面化してきたともいえますが、会社としてどうこう以前に、経営者としての責務を果たせない人のもとで働いてきた人は、たまったものではなかっただろうなと、決して長くはないサラリーマン経験から感じます。スケープゴートを捕らえてあれこれ言うのは好きではありませんが、近代性を受け入れようとする程度の保守性を認容できない社会は、その存在を永らえることはできないことを痛感する事件だといえます。堤氏のインテリ嫌いはつとに有名ですが、卑しさを飲み込めることと、卑しさを自覚さえできないことをシャッフルしてしまう“財界人”には、反吐がでます。

 そんなことを思いながら、ひっそりと辻井喬『虹の岬』を読み返しています。二面性を持てればこその、人間。そのおもしろさと滑稽さを感じられない人は、最後まで気の毒な存在でしかあり得ないのでしょう。

3月3日(木)
東国と西国

 鉄道利用 熊本〜首都圏は1日150人 新幹線の東京直通困難か(熊本日日新聞、3月1日):九州新幹線にかぎらず、現在計画が進行中の整備新幹線には、既存の新幹線の延長により東京への距離感を短縮するという期待が大なり小なりあるものですが、それに対する現実的な解としては、非常に厳しい結果です。東京圏から福岡県内への移動に際しても、福岡市の場合、立地条件が非常によい福岡空港を抱えていることもあり、新幹線のウエイトはかなり限られたものになっていますが、それ以上の時間を求めるには、やはり無理があるでしょう。もともと、列車の内部における移動時間そのものを楽しむような使い方には、新幹線という乗り物は向いているものではありませんし、劇的な時間短縮――現状では技術的に難しいでしょう――がないかぎり、九州新幹線に「対・東京」を求めるのは酷というものです。まして、東海道新幹線は慢性的な線路容量不足があり、直通列車を割り込ませることによるメリットに乏しいのですから、なおさらです。

 東京圏に対しては、九州観光への基本的なアクセスは航空機がメイン、そこから先の移動手段にバスまたは鉄道という格好になるのでしょう。

3月2日(水)
横軽トロッコ

 碓氷峠に汽笛 トロッコ列車試乗(上毛新聞、3月1日):長野新幹線(正式には、北陸新幹線の一部)の開業に伴って廃止された、碓氷峠越えの区間を整備して、トロッコ列車を走らせるという試み。廃線跡を用いて実際に遊覧列車を営業させる例としては、京都の嵯峨野観光鉄道があり、こちらは国土交通省に対して旅客運輸を行う届出をしている“ほんものの鉄道”ですが、こちらはいったいどういう位置づけなのか。まあ、そんなことを最初に考えてしまうのは、長期タイトル返上中とはいえ、一時は国内の鉄道全線に乗ってしまった人間ゆえなのかもしれません。そんな野暮なことはいいっこなし、いちど訪れて、ゆっくりとゴロゴロに身を委ねてみたいものです。

3月1日(火)
市名おそるべし

 美浜、南知多 「合併反対」が多数 名称問題は雲散霧消(中日新聞、2月28日)/上伊那南部合併 駒ケ根・飯島は「反対」過半数(信濃毎日新聞、2月28日):いずれも市町村合併が住民投票でご破算になったニュース。前者は、名古屋空港の愛称名をもとにした「南セントレア市」という新市名案が内外で大きな波紋を呼んだことに始まったものの、実態としては合併そのものの是非というレベルで否決されたパターン。いっぽう後者は、もともと合併がまとまりかけていたものの、「中央アルプス市」という新市名案に駒ヶ根市から反発が起こり、最終的にこじれてしまったパターンです。

 市町村名はとりもなおさず自治体名であり、それを決するのは住民である以上、市外の人間があれこれいえる筋合いではありません(カッコ悪いな、と思う市名は少なくありませんが)。“駒ヶ根”という現市名にしても、現在でこそ伊那谷の主要都市の一つとして定着した名称ですが、もとは、駒ヶ岳の麓ということから付けられたものにすぎません。それでも、市名が付いてから50年以上を経過すると、今回のような結果になったということで、すっかり住民の間に定着したことがうかがえます。

 翻って、「南セントレア市」が誕生していたら、果たしてどうなっていたのでしょうか。「セントレア」という名称が長期的に使われるものかどうかわかりませんが、確かに宣伝効果はあったでしょう。もっとも、名前だけは有名でも、どんな都市なのかピンとこない、という人が多くなりそうではあります。



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