2005年8月の雑記帳


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8月25日(木)
駅とアスベスト

 アスベスト:3駅舎で石綿むき出し−−小田急電鉄・町田駅など(毎日新聞、8月23日):断熱材などに利用されたアスベストによる健康被害が問題になっている中で、ある程度予測されていたことですが、駅舎にも利用されていたとのこと。小田急の町田駅において「駅舎」とはどこを指すのかという素朴な疑問が頭に浮かんだのですが、それはさておき。

 アスベストの安全な除去が強く求められることは、誰もが納得することでしょう。しかし、これを契機とばかりに、除去作業を終えたのちの建造物を次々と解体、新築するといった動きにならないだろうかという点が気にかかります。

 アスベスト問題への対策には行政の支援が行われることが考えられますし、そうなると公的資金を利用した公共工事につながっていくことが容易に想像されます。「ひとまず新しいものを建てる」という発想で作られたものが、利用者に見放され、髀肉の嘆を託っているなどというのは珍しくもなんともありません。繰り返しになりますが、壊すべきではないものを守っていくことの意味が、より広く認識されればいいなと考えております。

8月18日(木)
産業文化財のオーサリング

 本日の更新で、南海の2駅をアップ、2駅に写真を追加しコメントを拡充しました。このうち難波駅は、私鉄のターミナル駅としての貫禄十分で、見るべき価値の高い建築物といえます。このほかにも、南海には、利用者に対するサービス提供施設であることを意識した古い駅舎が、大事に使われているケースが目立ちます。古い駅舎が残っているのは、比較的最近まで駅に手が入れられていなかったためという見方も可能ですし、老朽化が進む一方という駅が見られるのも事実ではありますが、少なくとも結果的には“愛すべきB級建築”の宝庫になっている地域といえましょう。浜寺公園を別格としても、高師浜、蛸地蔵、諏訪ノ森、淡輪といった名駅舎がそろっています。これは、南海線のライバル路線だった阪和線にも通じるものがあり、インパクトは落ちるものの、鶴ヶ丘や和泉砂川、あるいは紀伊中ノ島などの駅を擁しています。

 しかし、これらのうち、諏訪ノ森駅の上り線駅舎は国の登録指定文化財になっていますが、建物全体のデザインバランスがより優れていると思われる高師浜、特にステンドグラスのつくりがきわめて精巧な蛸地蔵などは存置されています。行政によるオーサリングが文化財保護を正当化する有力な材料になっている現在、こういった「お墨付き」の有無によって、その後の駅舎の運命が大きく分かれそうです。実際、南海の駅舎群にも引けを取らないユニークな存在といえる鶴ヶ丘駅下り線駅舎は、阪和線の高架化工事による解体が決定しており、ステンドグラスの保存さえ「困難」のひとことで却下されています。

 これは、弊サイトにて中心的に取り上げている駅舎にかぎった話ではありません。発掘調査によって出てくる考古異物を「かさばるから処分しろ」という人はいないでしょうが、現役で使われてきた産業遺産になると、取って代わられるべき存在であるにとどまらず「消滅せしめ新ためしむる対象」と見られることが多々あります。

 壊すことは、作ることにくらべてはるかに難しいということは、当たり前の事実といえます。しかし、この事実を日本において共通の認識とするには、まだまだ時間がかかりそうです。

8月17日(水)
駅まわり

 ここ最近、集中的に近畿地方を回ってきました。これまで「乗るだけ」が多かった路線についても、まめに乗り降りしてきましたが、以前に自分が住んでいたときにくらべてかなり雰囲気が変わったところが多く「ここってこんな街並みだったっけ?」と思ったケースも多々あります。震災を契機に変貌したところも多いのですが、それだけではなく、大規模再開発、あるいは道路の延長、鉄道の高架化などによって、かつての面影がまったく残っていないことも少なくありません。もちろん、変化があったのちの訪問は、それがまたひとつの記憶、そして記録として残るわけで、そこから足を外した瞬間に「旧情報」と化すともいえるので、新旧の変化についてあまりこだわりたくはありません。しかし、不自然にきれいになってしまった街などを見ると、ここで生活している人はほんとうに住みやすいと思うのだろうか、などと考えてしまうことがあります。

 現在の私の旅行パターンは駅巡りが軸になっていますが、実際には駅そのものよりも、そのまわりに展開している街、あるいはもろもろの空間に触れることが、何よりも楽しみになっています。ターミナル駅などは、駅そのものが独自の“空気”を帯びているものですが、郊外となれば、駅からいったん離れて、カメラ片手にぶらぶらと歩く。これが、スタイルとして定着しています。駅を、鉄道と街とを結ぶジャンクションと考えると、そこに求められる機能、求めていきたい機能はいろいろでてくるわけで、「駅の写真館」でのコメントなども、実際に駅に乗り降りするとともに、その周囲を歩いたときの印象を踏まえて記していきたいと考えております。

 なお、すべての駅の写真をそろえていくという考えは、今のところありません。例えば、現在は廃止されている南海の旧天王寺支線で、部分廃止後に終着駅となった今池駅の写真がありませんが、これはカメラをバッグの奥底にしまいこんでいたためです。日本の治安はまだまだ悪くないと考えておりますが、それでもカメラを携行できない地域というのは確実に存在するわけで、そういうところに足を踏み入れる際には、それ相応の体勢が必要になりますので。

8月4日(木)
“廃墟”の語り

 もうピークは越えましたが、そう昔とはいえないちょっと前に、廃墟探検ブームとでもよぶべき現象が起きました。私は、人が何らかの生活を営んだ営為とその結果に対して敬意を払うのは、後世に生を受けしものとしてごく当然のこと――義務というほど固いものではありませんが――だと思いますし、したがって、生活の痕跡というものを追求することに対しては、何の抵抗も感じませんでした。しかし、こと“廃墟”という表現を用い、その背景に、無常を想起するのみならず、妙な滑稽さまで呼び起こし、あまつさえ、そこで過ごせし人の営みを無為化せんとするような言動には、とうてい同意できません。そういうしだいですので、かかる廃墟ブームの中で「いい具合に荒れています」だの「手入れされておらず楽しめます」だのというフレーズが出現するたびに、それ以降のテキストを読まずにスルーしておりました。

 現在でも、そういった姿勢には、大きな変わりはありません。しかし、栄枯盛衰を現実に見つめ、それを現在に再帰するべきことこそが必要である以上、“廃墟”と称されるものの背景にあるもの、あることを、現代に生きる者として考える必要があることは、あらためて説明を要すことでもありますまい。廃墟ブームというものによって、過去の顕現を評価するための第一歩を踏み出せた人がいるのなら、それはそれでよいことだったのかな、という考えになっております。

 これから数日にわたって、三重県は名松線の各駅をアップしていく予定ですが、駅前で出迎えてくれたのが、屋根の崩れ置ちた廃屋などという駅も複数ありました。こういった、日本という国土の現状――マスメディアが補足できないミクロ面については特に――については、まずは見ることなしには始まらないわけで、不謹慎であろうがなかろうが、百聞は一見にしかず、まずは一見を積むことが、将来の日本において大事なことなのではなかろうか。そんな風に考えております。

8月2日(火)
10年の断絶

 阪神・淡路大震災が発生したのは、今から10年前の1995年のこと。当時の私はすでに神奈川県に住んでおり、親戚も全員関東地方に居を構えていたため、震災の影響はほとんど受けなかったこともあり、その“瞬間”を肉体的にとらえることはありませんでした。しかし、阪神間に12年にわたって住んでいたこともあり、震災後、あまりにも変わってしまった光景に愕然とするとともに、その変化を、自分なりに見つめなくてはならないと考えてまいりました。

 この7月、神戸電鉄の全駅乗降を果たしたのち、阪神全駅の写真を撮影してまいりましたが、その際に、自分にとって身近だった駅を、順次加筆していこうと考えております。書くことは、残すこと、広めることのほかに、“書く”という行為を経ることによって、感覚や思考を言語化し体系化することにもつながるため――言語化なき感覚や思考はあり得ないのでしょうが、さりとて感覚や思考がみな言語化できるわけではありません――、近い存在だったものを、あらたに捉え直したいと思います。もっとも、実際に書き始めてみると、やたらと長くなってしまいがちという問題があるため、なるべくコンパクトにまとめていくように心がけるつもりではありますが。

 なお、平行関係にある阪急についても、阪神と同等以上に乗ってきましたが、いかんせん写真がそろっていないため、大幅な加筆は期をあらためることにいたします。それでなくても、写真を用意はしているもののまだアップしていない駅が多数ありますので。



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