第8日(1999年12月24日)

宮古-釜石-花巻-一ノ関-気仙沼-前谷地-石巻-仙台

 蒲団の中で目を覚ます。ここ数日、宿といえばベッドであった。自宅ではベッドを寝床にしているのに、旅先では蒲団の方が気楽になれるのはいったいなぜなのだろうか。朝になっても、中でもぞもぞとやっていられる快感を味わえるからだろうか、などとくだらないことを、朦朧とした中で考える。

 出されたおひつをすっかりカラにするという、ふだん食の細い私からは考えられないような朝食を終え、宮古発7時33分の花巻行きに乗る。よく晴れた日ざしを受け、2両編成のディーゼルカーはぎらぎらと輝いていた。

 車内は相当に空いている状態で発車する。まだ宮古から家が続いている磯鶏で、いきなり2分間停車。待合室のみの無人駅であり、乗降に手間取ったわけでも列車の行き違いをしたわけでもないのだが、いったいなぜなのか。

 登り坂を上がると、徐々に周囲が人家から耕地へと変貌していき、それとともに積もる雪の量も増えていく。そして下ると、海が見え、入り江の奥に位置する集落の中にはいる。まさに、リアス式海岸沿いを走る鉄道の典型的なパターンとといえる。もっとも、三陸鉄道などの新しい路線では、トンネルで山をぶち抜いてしまうため、なかなかこういった景色の変化を感じることができないのだが、この区間の開通は1935年である。

 「リアス式海岸」とは、山地が沈降してできた地形のことをさすが、三陸海岸はその代名詞となっている。沈降海岸の特色として、海岸線が複雑であり平地が少ない一方、入り江が多く海の深度がかなりあり、良好な漁場となる点があげられる。そんな海岸沿いに敷設されているのだから、うねうねと曲がる。

 大規模な護岸工事が行われており、重機がたくさん動いている。並行道路の南行きはずいぶんと混雑しており、スピードのあまり出ないディーゼルカーでもスイスイと追い抜いていくことができる。

 小集落のある津軽石で交換。ここも、名の由来がどうにもピンとこない駅である。高校生を中心に、下車客がけっこういる。対向列車は4両も繋いでおり、しかも座席はすべて埋まっているようだ。まだ朝ということもあって、この地区では宮古方面へという流れの方が大きいのだろう。

 ここから、坂の勾配やカーブは一段と急になっていき、ディーゼルカーのエンジン音からは「頑張り」が感じられるようになる。周囲には雑木林が多いが、ちょっとカーブすると田畑の中に入り、そして平地になると待ってましたとばかりに加速。これをひたすら繰り返す。

 路線名にも採用された陸中山田で、かなりまとまった乗降がある。サケを中心とした漁業の町であるが、このあたりでは比較的大きめの町に見える。駅の構内も広い。

 これから先、坂とカーブ、そして折々見える海、この光景がずっと続く。ぬっと海が列車の下に入ってくるようなときもあり、一瞬驚いたりもする。ディーゼルカーはかなり海岸に忠実な走り方をしているため、U字状のカーブを描くことさえある。このため、なかなかスピードが出ない。そして、照りつける日差し、穏やかな海。本当にのんびりとした気分になる。海の沖合はどうだか知らないけれど、これだけ海が穏やかであればこそ、ホタテ貝の養殖なども可能なのだろう。このあたりでは、ホタテのことを「いちご」というそうだが、駅弁には「いちご弁当」というのがあるという。私はまだ買ったことも見たこともないけれど、何も考えずに、中に苺が入っていると期待する人はいるのだろうか。

 どうにも気になる名前を持つ駅というのがあるもので、その一つが吉里吉里(きりきり)である。片面のみの無人駅だが、意外にも乗客は多い。集落に並ぶ家々を見ると、屋根こそシンプルであるが、これまで見てきた家々に比べ、ずいぶんと壁や窓の色が明るく見える。三陸沖というのは、暖流と寒流とがぶつかるところであり、どちらかというと霧が多そうだから、あまり「明るい」というイメージとは結びつかないのだが。

 次の大槌で、乗客の3分の1程度が降りてしまう。山田に次ぐ集落であり、鼻曲がりサケで有名である。築堤上の島式ホームとなっており、駅舎は築堤の下に設置されている。

 ここまで走ってきた区間の各駅にも、バックミラーなどは用意されていない。すなわち、ワンマン化への対応がされていないということなのだが、盛岡-宮古とは異なり、宮古-釜石は乗客もそれなりに多く、廃止の噂など聞いたこともない。以前、この区間で南北が分断されている三陸鉄道が同区間を引き取る、という話もあったと耳にしているが、現在では具体的な動きは見えていない。ただ、JR東日本がワンマン化を行っていないことから見ると、何らかの動きがある可能性が残っているのだろう。

 長いトンネルを抜け、左へとカーブし、釜石に到着する。ここで乗客のほとんどが下車した。

 釜石では、実に28分間停車する。ここで進行方向が変わるということを考慮しても、ずいぶんと時間がある。例によって改札口へと向かう。この釜石駅は地下通路を通って改札口に向かうという構造になっているのだが、この地下通路がずいぶんと暗く、狭い。関西地区の東海道本線の古い駅では、こういった非常に暗い地下通路が多いことを、ふと思い出す。しばらく駅前をぶらつき、コンビニエンスストアで牛乳を買って、飲む。

 釜石は、鉄鉱石鉱山、次いで製鉄の町として発展したが、1960年代以降は製鉄所が合理化のためにその規模を次第に縮小し、現在はすでに製鉄所としての機能はなく、鉄鉱石鉱山も終掘となった。そのせいもあろうか、駅前広場は綺麗に整備されているにもかかわらず、吹き抜ける風がどことなく寂しい。浮沈を特に感じない漁業都市の宮古とは明らかに異なり、駅向かいの工場敷地が空しさを伝えるのは、以上のような知識があるからかもしれないが、活気が乏しいことは間違いない。

 ここから先の釜石線は、ワンマン対応路線となっており、この列車もワンマンカーとなる。路線名には「銀河ドリームライン釜石線」という表記がある。長ったらしい名前だが、「銀河」「ドリーム」と並ぶと、東京-大阪を結ぶブルートレイン「銀河」号をどうしても思い浮かべる。釜石線の前身である岩手軽便鉄道が、賢治の「銀河鉄道」のモデルとなったということから出てきた発想なのだろうけれど、なんとも安直である。カタカナを用いてやたらと名詞を長くする昨今の傾向というのは、日本語の乱れ云々とは別次元のものとして、「漢字」の力が弱まっていることを示すのではないかと思うのだけれど、どうだろうか。

 これが横切っていく北上高地は、隆起準平原であり起伏こそ乏しいものの、最高峰の早池峰山が標高1,900mを越えるなど、意外と高い位置にある。海岸沿いから越えていくとなると、相当な登りを要する。このため、花巻から釜石に至る鉄道の建設は困難を極めたが、戦時中に国策として建設が進められ、戦後の1950年になって、やっと釜石線は全線開通を実現したのであった。

 そんな釜石線に入った列車は、各ボックス一人ずつ程度の乗車率である。しばらくは市街地を走り、左側に民家がずっと並ぶ。

 小佐野は、釜石の市街地にある駅で、有人駅であった。釜石線には急行列車が3往復走っているが、この小佐野には全列車が停車している。それだけ乗降が多いのだろう。右側の急な壁面は、崩落の危険があるのだろうか、工事が行われていた。

 ここから、ぐいぐいと登っていく。しかし、並行して並んでいる家々は、線路に追いつこうとするわけでもないので、次第次第に列車が家々を見下ろすような恰好になっていく。民家は次第に団地へと変わっていくが、郊外の団地群は、釜石が企業城下町であったことを示す遺産といえよう。

 次の松倉は無人駅であったが、割と下車客は多かった。ここから人家が次第に減り、一方で列車はひたすらに登る。右手に見える山々には落葉樹が多いのであろう、一見するとハゲ山の所々に常緑樹が多いように見えるが、目を凝らすと、そこに樹がいっぱいであることがわかる。右側は南側斜面なので雪などまったくないのはわかるが、左側も大した雪の量ではない。

 集落を囲むように、右へと大きくカーブを描く。ここからは、勾配そのものよりも、カーブが多く目立ち出す。もうこれ以上はにっちもさっちもいかない、という具合に陸中大橋駅に停車。側線もあり、構内はずいぶんと広い。もはや使われることのない鉄鉱石の積み出し跡、そして古トンネルなどが、寂しそうに残されていた。

 ここからが、釜石線のハイライトである。すぐにトンネルに突っ込むのだが、ここからトンネルの中を右に、そして左にと、蛇行という言葉がまさにふさわしいカーブを地中で描く。トンネルと急カーブ、そして急勾配とのスクラムによって、標高差をなんとか克服したわけである。地図を見ると、ここはギリシャ文字のオメガ(Ω)状になっている。トンネルとトンネルの隙間から、下の方に陸中大橋駅が見えるはずなのだが、探すタイミングが悪いのか、結局見つからないまま列車は走り過ぎ、分水嶺を越えた。

 これから先は、ひたすら降りて行くのみである。降りていく、といっても、今登ってきたような急勾配ではなく、緩やかな坂に過ぎない。

 水田にはうっすらと雪に覆われてはいるが、あぜ道はくっきりと出ているし、あと二日も天気のいい日が続けば消えてしまうであろう。流れる川にも川原石がごろごろしているのがよく見え、氷結などどこにも見当たらない。今まで、ずいぶんと自然の厳しいところばかり通ってきたのだな、と実感する。

 岩手上郷で、そこそこの乗客がある。ここで、下りの急行列車と交換。あちらは、2列シート3~4列ごとに1人と、ガラガラである。私も、釜石線を走る急行列車「陸中」に乗ったことがあるけれど、やはりガラガラであった。あの列車が埋まる条件というのはいったい何なのか、と思う。ここから乗ってきた女子高生が、「免許をまだ取ってないの、それじゃ大変だ」といった内容のことを話している。高校生の場合、就職してから免許取得というのは大変なのだろう。こういった地方ではクルマがないと移動の手段がそもそもないから、免許はいずれ必需品である。早くしないと、という声には、しかし切迫感はなさそうに聞こえる。

 遠野、10時25分到着。かなりの客が入れ替わる。ここで9分間停車するので、外に出る。煉瓦積みの重そうな駅舎が、むっ、と腰を据えている。駅そのものは宿泊施設「フォルクローロ遠野」としても使われている。駅周辺の光景は、典型的な地方都市のそれであり、遠野という地名から連想する『遠野物語』の世界は見る影もない。神も妖怪も出てくる気配はないけれど、あの名著がここをもとに記されたのだな、という感慨はわいてきた。

 発車すると、単調な北上高地を、単調に下っていく。すでに昼前のけだるい時間帯、列車は何も語ろうとせず、ただひたすら走る。それまでの刺激的な一瞬が夢であったかのようだ。風景として展開する水田、民家、それらは時折雑木林によって隠されるものの、数分とたたぬうちに似たような景色が再現される。

 割と大きめの集落が出てくると、宮守。年代物のアーチ橋が見える。ホームには、腕木式信号機を用いたモニュメントが置かれ、駅の愛称は「ガラクシーア カーヨ」(銀河のプラットフォーム)だそうな。エスペラントだそうで、「ガラクシーア」はすぐにわかったものの、「カーヨ」となるとまったく見当がつかない。駅ごとに愛称名をつけるというのは、1984年4月に国鉄から転換した三陸鉄道が先駆であり、それを真似ているのが見え見えであるだけに、余計にすんなりと楽しめない。

 しばし、右側に崖が迫り、水力発電所もある。大雨が降ると、上から岩が降ってきそうな感じである。

 土沢駅で、11分間停車する。構内踏切を渡り、いったん外へ。釜石線の駅舎は、遠野を別格とすると古いものをそのまま使っているというケースはずいぶん少ないのだが、先の宮守とこの土沢とは、ほぼそのまま大事に使われているようだ。この土沢も、全急行列車が停車する有人駅である。交換相手も急行列車であるが、やはり空いている。

 東北新幹線乗り換え駅の新花巻は、高架下の片面ホームという、なんとも寂しい駅だが、ここで乗客の半分以上が下車する。やはり、新幹線の力はそれだけ大きいのだろう。

 ワンマン列車は、花巻の市街地に入りつつ、乗り換え列車案内のテープを流す。ずいぶんと長いこと乗ってきた列車であったが、定刻11時53分に花巻駅に着いたときには、まだ乗っていても別に悪くはないか、ぐらいの気持ちになっていた。なにせ、窓枠に物置スペースがある、ドアが列車脇なので長時間乗車に良い、そしてボックスシートがある、など、快適な使用の車両ということもあろう。オールロングシートの電車とは、ことごとく異なる設計になっているのは、いったいどうしてなのだろうか。

 花巻駅の改札をいったん出て、宿の予約を入れる。この分なら、おそらく気仙沼線に乗り終えたあたりで日が暮れるだろう。石巻か松島あたりで泊まってもいいが、その後の行動を考えた場合、仙台に泊まるのが良策と考え、仙台駅から徒歩圏内の旅館兼営ユースホステルにした。仙台駅の郊外には、より設備の良い宿泊施設もあるのだけれど、駅から遠い上、朝早く出るのは少し辛い。

 花巻駅の駅舎をざっと眺めるが、別段印象に残ることもなく、そそくさと次の接続列車に乗り込む。またまた、ロングシートのワンマン2両電車。この列車にはいい加減飽きてきたけれど、さすがにそろそろ打ち止めであることを期待する。

 走り出すと、その速さが釜石線とはまるで違うのがよくわかる。東北本線は、昼行特急列車こそ消滅したものの、貨物列車が頻繁に行き来する重要幹線であるから、やはり線路状態がよいのであろう。

 工場の間をぐいぐいと走り、終着の北上に到着。乗車時間はわずか13分、呆気ないものであった。

 北上では、3分の接続で、一ノ関行きに乗り換える。この列車は、全区間、電化されている東北本線を走るにも関わらず、3両編成のディーゼルカーであった。一ノ関から分岐する大船渡線の車両の間合い運用で使われているようである。

 水田の中を高速で走る。モーター音は高いけれど、うなり苦しんでいるというのではなく、誇らしげにフル回転しているように聞こえる。急行列車に乗っているような錯覚を覚える。

 目にする民家には、垣根をまめに作っているものが実に多い。さらに、北または西に、防風林を備える場合もある。家々は、建物よりも、それを覆う緑色によってより目立ちやすくなっているようである。

 この区間ではもっとも大きい駅である水沢では、どうにも活気というものが感じられず、駅前の風景もどことなくくすんで見える。新幹線停車駅でないせいもあるのだろうが、それなら花巻だって事情は同じ筈だが。それでも、乗降客はそこそこ多い。高野長英の出身地で、南部鉄瓶の生産地の一つでもある。

 左側に北上川が沿うが、その沿岸部には芝生が植えられている。この周辺では、かなりの規模の遺跡が出土しており、平泉文化を語るには欠かせない成果は、土木工事の計画を大幅に変更させた実績もある。真新しい芝生の下は、発掘が終了した遺跡なのかも知れない、と思う。

 栗駒山から発する岩井川を渡ると、急に減速し、一ノ関には13時1分に到着した。

 ここから乗る大船渡線列車の発車時刻は、14時7分。1時間以上の待ち時間があるので、例によって街に出て、まずは郵便局を回ることにする。

 駅にある地図に従い、駅前郵便局を探すと、それらしき建物はあるものの、もぬけの殻である。たまたま配達をしていた職員に郵便局はどこか、とたずねると、全く違う場所を教えてくれる。廃止になったのか移転したのかはしらないが、いずれにせよ近場ではなさそうだ。

 やれやれ、と肩をすくめながら、一関田村町、一関の両郵便局に行く。一関郵便局の風景印の中には、東北新幹線が走っていた。

 大船渡線の列車は、快速「スーパードラゴン」である。実に珍妙な愛称名を冠した列車であるが、これは、大船渡線がぐねぐねと曲がりくねっている様が、まるで竜のようだから、ということらしい。ぐねぐねであれば、ドラゴンでなくてスネークでも構わんだろうが、それでは格好が付かないので取りあえずドラゴン、なのであろう。

 釜石線のカーブを通った後にこの路線を見ると、さぞかしすごい急勾配が続くのだろうと思うが、実際には、ある駅まで線路が延びると、地元の有力政治家の力で線路の方向が北へ行き、その政治家が失脚すると線路の方向が南へ曲がり、といった、文字通りの「紆余曲折」の結果であって、地形的な問題によるわけではない。このため、「ナベヅル路線」などと呼ばれることもあるが、現在は、「ドラゴンレール」という愛称になっている。

 ワンマン列車2両編成で、各ボックスに1人ずつという程度の乗車率。まだ2時過ぎなのだが、日差しはすっかり「西日」の色を含んでいる。車内が暑いのでビールが欲しくなったが、これまで散々飲んできていることでもあるし、気仙沼線の方に持ち越そうと考え、自重する。

 前の席に座ったおっさんは、窓際に移り、時刻表を熱心に見ている。私はすでに窓際にいるので、こういう場合、大抵は足をゆっくりさせたいという心理からか、対角線上に座る、すなわち通路側に座るものだが、珍しい。この人もその種の趣味を持っているのか、と思って時刻表のページを見てみると、なぜか新幹線のページである。今乗っているのは下り列車だから、この先新幹線に乗り換える必要はもちろんない。不思議である。

 発車後、すぐに左に曲がる。意外にも俊足で、並行道路のクルマをぐんぐんと追い越す。ほどなく灌木が線路を取り囲むようになり、右に左にとカーブが続く。右手に川が、そしてしばらくするとそれがせき止められてできたと思われる湖が見える。どよんと緑色に淀んでいるのを見ると、かなり違和感を覚える。少なくとも、北上高地にふさわしい色彩ではない。

 最初の停車駅、陸中門崎は、交換可能駅ではあるが、現在は無人となっている。乗降客はさほどない。この後の気仙沼までの停車駅は、猊鼻渓、摺沢、千厩の三つであるが、このうち猊鼻渓には、この時期に観光客が見込めるとも思えないので、実際に動きがあるのは、摺沢と千厩だろうと思う。

 右手の山を見ると、削り取られて白い姿をこちらに曝している。石灰石の産地でもあるのだろうか。

 陸中松川を通過する。貨物ホームを初めとした立派な設備と広大な敷地を今なお残しており、それらの多くは今でも現役として使われているようだ。右手には三菱マテリアルの工場があり、ここへと専用線が伸びている。山の斜面には階段状にベルトコンベヤーが走っていた。

 猊鼻渓は、一面一線の寂しい駅である。1986年11月開設という真新しい駅で、明らかに観光客相手の駅だが、今はそういう時期ではない。

 ここから、ぐいと左に大きく曲がり、藪、そして林の中を切り開いていく。

 淡々とした風景の中を進み、平地が見えてくると、摺沢に到着。真新しいビル式の駅舎が待っており、ここで全体の3分の2にあたる乗客が下車する。もっとも、駅舎が新しいにも関わらず、ホーム間の行き来は踏切を渡る方式となっている上、それもホーム端ではなく真ん中に近いところを横切るスタイルというのは、新旧が奇妙に共存しているようで、楽しい。ここで、前席に座っていたおっさんは、別席へと移った。

 摺沢を発車すると、急に上り勾配となり、方向を右へと転じる。山間部に入り、列車は右へ左へ、ゆらりゆらりと揺れる。この間、列車は南へ進んでいるはずである。一ノ関を出てから、東・北・東・南と進み、再び東になって気仙沼に行くわけで、「凸」字の上部のような線形をしているわけである。もっとも、車窓に見えるのは、釜石線同様、北上高地の続きとなる緩い斜面であり、どうにも変わり映えがしない。

 千厩は、平屋建ての鉄筋コンクリート造り駅舎であった。乗降ともそこそこの人数がある。ここで上り列車と交換するが、向こうもさほど混んでいるわけではなく、似たような状態である。

 どうにも変化に乏しい中を進むが、睡眠が十分であるせいか、別段眠くなることもない。なんとなく退屈、そんな状態であるが、しかしその退屈さの中に、他では得難い快感を見出しているのも確かで、ひたすら何もない状態でただただ時を過ごす。

 そんな刺激に欠ける状態は、気仙沼まで続いた。15時19分に到着。ここからは宮城県となる。石巻と並ぶ一大水産都市である。大船渡線自体は、その名の通り、大船渡市の盛駅まで行くけれど、それでは最長片道切符にならないので、ここで気仙沼線に乗り換えとなる。

 気仙沼の駅前には郵便局がある。以前訪れたときにこれは知っていたが、その時は風景印の押印依頼をしなかったので、ひょっとしたらあるかも、と思い、窓口でたずねてみると、置いてないんです、との答え。もう一度貯金をする義理もないので、それだけで局を出る。

 ここから乗る気仙沼線の快速「南三陸4号」は、デッキ付きのキハ48という、急行にも使える車両を先頭に、堂々の3両編成であった。大船渡線がワンマンだっただけに、デッキ付き列車というのは意外であった。先頭車に乗り込む。シートがブドウ色になっている他は、国鉄時代の設備がそのまま使われている。真新しい車両ばかりだと味気ない思いになるが、こういう年代物にあたると、どことなくほっとするから不思議だ。全国どこにでもコレが走っていると、またこのボロ車両か、と思うのだろうから、こういった感傷に基づく感想ほどあてにならないものはないのだが。

 この列車は、気仙沼線、石巻線、東北本線を経由し、仙台まで行く。私も今日は仙台まで行くけれど、最長片道ルートは気仙沼線から石巻方向に進み、仙石線を経由するので、この列車は気仙沼線の前谷地(まえやち)まで乗ることになる。

 車内に荷物を置いてから、一旦外へ出てビールを買う。再入場しようとすると、切符を見た駅員氏、

「うぉー、すごいね」

という。予想された反応ではあるが。

「これ、全部行くんですか、この通りに」

「ええ」

「はぁー…大変ですね…ありがとうございます」

 昨日の大曲でもそうだったけど、この切符を見せたときの反応が、北海道に比べてずいぶんと大きい気がする。東北の人はリアクションが素直なのかしら、などと思う。

 15時52分、定刻に発車した快速「南三陸4号」は、1両編成に10人程度と、ずいぶん寂しい状態で発車する。大船渡線と別れ、左へ大きくカーブ。新興の住宅群が多く立ち並ぶが、まだまだ空き地も多い。

 次の南気仙沼は、島式ホームの有人駅。気仙沼駅発車当時はガラガラだった車内は、ここで大量の乗客を詰め込み、1ボックスあたり2~3人となる。気仙沼駅よりも南気仙沼駅のほうが気仙沼市の中心部に近いためこういう状態になるのだが、気仙沼と南気仙沼との間にはシャトル列車などは設定されていない。羽越本線の東能代と五能線の能代の間には多くの区間列車が設定されているのに比べて対照的ではあるが、連絡相手となる大船渡線は特急列車など無縁のローカル線ゆえなのだろう。

 南気仙沼を出て、坂を登りながら右へと大きくカーブする。橋を最徐行して渡るが、老朽化しているのだろうか。立ち並んでいた水産加工工場が途切れると、林を突っ切り、そして農村地帯が広がる。左手に見える海に対し、右手の空には真っ赤な太陽が沈みかかっていく。

 入り江があると漁港があり、そして集落が出現する、これをひたすら繰り返すが、宮古から釜石にかけての区間に比べれば起伏は緩やかで、また景色の変化も比較的おだやかである。また、人口密度も比較的高いように見える。

 大谷海岸では、立ち並ぶ松並木の向こうに、青い海が実に美しくその姿をのぞかせる。丘陵の彼方には赤い陽の影が見える。停車位置が良く、松のシルエットを存分に堪能できる。長いこと白い雪にまみれた海岸ばかりを見てきたが、白砂青松という言葉を久々に思う。砂浜があることから、おそらく夏には海水浴客で賑わうのだろうが、この時期は寂しい駅である。

 走り出すと、海が一面に広がる瞬間があり、思わず息をのむ。次の瞬間には、何とも声にならない溜息が漏れる。

 本吉は、島式ホームの交換可能駅で、ここでも乗車が数人ある。やはり「仙台直通」というのは大きいようだ。

 ここからは、1977年12月開通という、比較的新しい区間となる。新しいといっても22年も前のことではあるけれど、地方での道路整備と自動車の普及がすでに完了した時期であることには変わりなく、開通した区間が受けた「恩恵」は、それが熱望された当初に比べて遥かに減退したのは間違いない。乗車率は意外に悪くないとはいうものの、テコ入れには限界がありそうな区間であるように思われる。

 新しく開通した区間だから、トンネルで丘陵をぶち抜いてしまう区間が多く、車窓はあまり楽しめないのが何よりも残念だ。本吉を出るとすぐにトンネルとなる。曲線が少なく、また高架上を走る部分も多いため、列車は遠慮なく高速で飛ばしていく。このため、通過駅を観察することもなかなか難しく、ヒュンヒュンと後ろへ飛んでいってしまう。

 交換可能駅の歌津は、高架のホーム上にごく簡素な待合室があるのみで、非常に寂しい。おそらく駅舎は地平にあるのだろうが、その姿はここからは見えない。国鉄時代と同じスタイルの駅名標のほか、電照式で「うたつ」と照らす灯りが、日本鉄道建設公団によって造られた路線であることを物語っている。

 入江ごとに、ちらちらと漁火が見える。すでに外は暗く、いくつかのトンネルを抜けると、外にある景色は判然としなくなってきた。

 柳津(やないづ)から、再び、比較的古い路線に戻る。気のせいか、列車のスピードがかなり落ちたような気がする。

 前谷地到着17時8分。下車客は数人だけである。やはり、大半の乗客は仙台までそのまま乗っていくのであろう。

 前谷地駅は、有人駅であるためにいくらかでも淋しさが紛れるとはいえ、駅前にいくつか並んでいる商店にも人気はなく、侘びしさばかりが募る。駅前を数分ぶらついただけで、すでにホームに入っている石巻行きの列車に乗り込む。アナウンスも何もなく、ただドルドルとエンジン音をたてているので、逆方向に行かないかどうか、改札の案内を確認してから乗り込む。発車は17時39分だけれど、結局20分近く、停車した列車の中に籠もる。2両編成のワンマンカーである。

 いつの間にか発車。各ボックスに1人ずつが乗るという乗車率は、どう評価するべきかちょっと微妙なところ。連結部分が広く改造され、見通しが良くなっている。要するに、2両単位のユニットとして運用しているわけである。

 金髪の外国人女性が一人で乗っている。大荷物を持っているから観光客なのだろうけれど、いったいどこへ行くのか、とも思う。

 眺めたい風景も黒一色で、何も感じるところなく、石巻には17時58分に到着した。

 すでに外は真っ暗である。この旅行では、なるべく明るい時間帯に乗るようにしてはいるし、この方針に従えば、この石巻で泊まるのが妥当である。けれど、今日は仙台まで行っておかないと行程を組みにくいので、強行することにする。海に沿って走る区間もある仙石線がもったいない気はするが、いずれ必ず再訪する区間であるし、何よりも間もなく新規開業予定区間を有する路線である。その際に乗り直せばいいや、などという安直な考えもある。

 いったん改札を出る。ここでも、やはり結構大仰に驚かれるが、一応下車印を捺してもらうだけで、すぐに乗り込む。次の仙石線列車は18時4分発の快速電車である。

 私はここまで「列車」という言葉を中心に用いてきたが、この区間に関しては「電車」という言葉のほうがふさわしい。この区間には、4扉ロングシート、それも東京や大阪で走っていたのと同じ、しかし少し古い電車が活躍しているのである。二大都市の郊外に来たような気分になる。唯一異なる点は、ボタン式の半自動扉になっている程度だが、八高線あたりではこういう電車も走っているし、どうにも「地方」らしさがない。

 こんな電車だから、印象も何もない。途中駅で空席ができ、そこに座ってからは、MDが流す音に神経がいってしまう。高架駅から見える駅前風景も、大都市近郊の典型的なものであり、せいぜい単線ゆえの列車交換が珍しいくらいである。

 19時5分、仙台着。仙石線のホームは、東北新幹線や東北本線とは位置が少し違い、それらへと斜めに突っ込むような形になっている。すぐ近くで大工事が行われているはずなのだが、こう暗くてはそれも見えない。

 今日の宿は、旅館兼営のユースホステルである。以前にも泊まったことがあるので、ルートはわかる。

 仙台の郊外、住宅地の中を歩く。途中、スーパーに立ち寄り、ここで弁当を購入。

 本来ならば相部屋の筈のようだが、部屋割りの都合上ということで、今日もまた一人であった。これ幸いと、いまだに書き終えていなかった年賀状を処理する。テレビの音をBGMにボールペンを走らせる姿は、端から見るとどのように見えたのだろうか。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
37th宮古733→花巻11551630D
38th花巻1203→北上12162530M
39th北上1219→一ノ関13011736D
40th一ノ関1407→気仙沼15193335D
(快速・スーパードラゴン)
38th気仙沼1552→前谷地17083922D
(快速・南三陸4号)
39th前谷地1739→石巻17581647D
37th石巻1804→仙台190538269S
(快速・うみかぜ36号)
乗降駅一覧
(宮古、)釜石、遠野[NEW]、土沢[NEW]、花巻[NEW]、一ノ関、気仙沼、前谷地、石巻、仙台
[NEW]を付しているのは、この日にはじめて乗り降りした駅です。
訪問郵便局一覧
一関田村町郵便局、一関郵便局

2000年2月8日

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