第13日(2000年1月5日)

池袋-田端-秋葉原-千葉-佐倉-成田-松岸-成東-大網-安房鴨川-蘇我-東京-新宿

 年明けを自宅で迎えたが、2000年問題に関しては、特に大きなトラブルなどは発生していないようだ。原子力発電所など、二重三重の安全対策が求められる施設で小さな問題が起こっているらしいというのは、日本というこの国における「安全対策」の現状をあざ笑うようで皮肉な話だと思うものだが、ひとまず、古いプログラムを無理に使わないかぎり、さほどの心配はない、と見て良さそうだ。

 さて、「最長片道」ルートは、ちょうど前半がほぼ終わったものの、まだ関東近辺をかなり残している。これらの区間は、できるかぎり家にいる間に乗ってしまいたい。ローカル線らしい区間もほとんどないし、まさに「乗る」だけ、ということになりそうではあるけれど、それもまた一興であろう。

 おにぎりと味噌汁を朝食として腹に詰め込み、自宅を5時18分に出発する。

 発車当時、わが最寄り駅を出発した小田急線の電車に見られる乗客は、1両に15人程度。すでに三が日明けの平日ではあるが、さすがに始発電車となるとこの程度のものだ。だいたい、小田急線の急行が6両編成のままで新宿まで直行するというだけでも、充分に非日常的な体験をしているという気がする。

 あまりにも慣れきった新宿駅の地下連絡改札口を通り、山手線のホームに移る。6時過ぎという時間では、さしもの新宿駅も閑散としたものだ。もっとも、日ごろの新宿駅を知っているから閑散と見えるだけであって、これが郊外の駅であったとすれば、ちっとも閑散としていない、と見えるに違いない。やはり新宿駅、という方が正しいのかも知れない。

 新宿6時19分発の電車に乗る。まだ外は真っ暗である。向かいに見える西武新宿線ホームに、ぽつっ、ぽつっ、と人影があり、それがゆらゆらと揺れるように歩いている。

 山手線の車内は、ロングシート一つに5人程度である。こんな時間に電車に乗る客はいったい何者なのか、という疑問が当然のように出てくるけれど、どうにも客層が掴めない。てんでんばらばらなのだ。

 東武線や西武線の乗換駅である池袋に着き、ここで車内の8割以上が下車。それなりに乗ってくるが、一気に空く。山手線の車内がガラガラ、というのは、早朝にしか体験できない。ガラガラ山手線、といって、すぐに「朝帰り」という言葉が直結してしまうのは、私のイメージが貧困であるせいだろうか。

 ここから、いよいよ「最長片道」ルートに戻ることになる。乗っている電車は今まで通りの山手線で、座っているシートから見える光景もふだんから目にしているものではあるけれど、ともかく「旅」の再開ではある。

 池袋から田端までの間は、何十回も切り通しを進むことになる。大塚から少しずつ明るくなり、建物の輪郭がハッキリしていく。

 地下鉄千代田線との接続駅である西日暮里でかなりの乗車があり、全席がほぼ埋まる。左手を東北新幹線が追い抜いていくが、さすがにこの時間帯の上りであるから、おそらく回送であろう。

 上野では若干入れ替わるが、大した人数ではない。上野ガードを過ぎると、ひたすらビルが続く。

 秋葉原には6時47分に着いた。

 秋葉原でいったん下車する。家電製品やPCなどで有名な街だが、こんなに朝が早いとシャッターが降りているばかりである。私の通っている学校から徒歩圏内にあることもあって、いつも賑やかな街、という先入観がインプットされているだけに、何もない秋葉原は寂しい、とつくづく思う。

 しかし、電気街口への乗り降りは実に面倒である。バリアフリーが叫ばれる中、この秋葉原駅の構造をどうにかしよう、という検討は当然なされていると思うのだが、なかなか実現しそうにない。常磐新線の駅も建設されているというのに、またも「乗換不便駅」が増えるというのだろうか。

 ブチブチ言いながら階段を昇り、今度は山手線の上に覆い被さる総武緩行線のホームへ。進入してきた電車には、意外と乗客が多く、席は全て埋まる。ここもまたビルの谷間を走る。

 隅田川を渡る。風格のある、両国の駅舎が見える。駅の結構は小樽と似ているが、見た目の印象がだいぶん違うように感じるのは、カラーリングが白系統であるせいだろう。往年のターミナルも、現在はビアガーデン、というのは悲しいものがある。地上ホームは広告のみ健在といった趣で、場所によっては荷物置き場と化していたが、線路だけを見たら、いつでも入線可能の状態のようである。

 錦糸町6時59分着。

 錦糸町での乗り換えも面倒である。緩行線(各駅停車)と快速とを乗り換えるのに、いちいち階段を上り下りしなくてはいけない。快速と緩行線が同じホームの反対側で簡単に乗り換えられる御茶ノ水駅を毎日の通学に利用している私としては、いくら貨物列車があったからといって、かくもアクセシビリティに欠ける構造を取ったことは不思議で仕方がない。旅客の利便性などという殊勝な考えを当時の赤字国鉄に求めるのは酷だったのかもしれないが、乗り換えに手間がかかればそのぶん滞留も大きくなるわけで、機能面でも感心できるものではなかったと思うのだが。

 入ってきた快速電車は、ロングシート(ただし、編成中の一部がボックスシート車という、ちょうど相鉄電車のような編成)の新車であった。例によって車両形式に関する知識は非常に乏しいので、E何系というのかはわからないが、混雑の激しい横須賀線にもロングシートか、と思う。

 ひたすら家ばかりが続く。おおむね高架の上を走るが、どうにもアップダウンが激しい。このあたりは低地のはずで、そんなに高低差があるような感じもしないのだが、川を渡るたびに上がったり下がったりしているような感じもする。

 市川で4分停車して、特急を待ち合わせる。けっこう乗車が多く、ここで座席がすべて埋まる。割と朝早い時分の下りなのに、とも思うが、当然のように上りの方はホームにずらりの行列。千葉と東京とでは都市の規模自体がまるで違うとはいえ、千葉もそれなりの大都市、逆方向への人の流れがあるのは当然のことだろう。

 発車すると、ずいぶんと速い。中央線の快速など実態は「不快速」だし、東急東横線の急行は「隔駅停車」以外の何物でもないのだけれど、この総武線快速は本物だ。景色がどんどん後ろへと動いていく。

 巨大な西船橋駅を通過する。武蔵野線や地下鉄東西線などの乗換駅でもある交通の要衝なのだが、快速はこの駅を通過する。乗換駅には律儀に優等列車を停車させる小田急線に乗り慣れているせいもあるけれど、なんだか不思議な感じがする。

 津田沼駅に到着すると、反対側の上りホームには、次の電車を待つ人の行列がずらりとできている。市川の比ではない。おそらくは始発列車であろう。

 ここから少し眠り、うとうととしたところで、千葉7時37分着。

 千葉駅では少し時間があるので、体を冷まさせることもあって、いったん外に出てぶらりと歩いてみようと思い、中央口から西口へと歩く。西口で入るときも下車印を捺されるが、すでに「下車印を集める」ものと思いこまれているようだ。券面を見る限り、そう判断されるのが自然ではあるが。

 西口は、北側(下り左側)の整備が完了していた。そういえば、駅の北側がどうなっていたかなど、今まではまるで記憶になかったが、その実態は整備中だったのであろう。

 ここから乗る快速「エアポート成田」7時55分発は、早朝便に接続しているのか意外に混んでおり、立つこととなる。大仰なネーミングのついている列車だが、要は横須賀線から直通している快速列車と同じなので、別段「成田空港」を意識するほどの何か特殊な雰囲気があるわけではなく、実のところただの郊外列車だ。

 発車後すぐに左へとカーブすると、頭上にはモノレールが見える。線路が広がるも車両が見えないのは、朝方ゆえに出払っているからであろうか。マンションも建っているが、すぐに視界は田畑や山林に取って代わり、一気に風景が変わる。

 再びモノレールが左からオーバーすると、都賀に到着。

 四街道は地平の対向式ホームで、橋上駅舎であった。ここで下車する乗客が多い。

 住宅が途切れると畑、トンネルを出て切り通しを通ると、佐倉。堀田藩の城下町で、現在は国立歴史民俗博物館の所在地である。「佐倉義民伝」のほうが名の通りがよいかもしれない。ここでの下車が多く、空いた席に座ることができた。外は思いのほか寒く、開いたドアから吹き込む冷気に体が縮まる。特急通過待ちで5分停車。雲が日差しを遮り、薄曇りの状態である。

 伝統的な国鉄色をまとった特急電車とすれ違いつつ、左へと分かれ、水田の中を進む。山林が多いが、低地に出ると住宅と畑とが混在する。

 8時27分、成田着。成田線の分岐駅であり、駅構内はやはり広大である。

 成田駅は、首都圏の他の駅と同様に自動改札がコンコースを遮っているため、友人改札を通ることになるのだが、例の切符を渡してもなかなか通してくれず、口でぶつぶつ言いながら切符を見ている。返すときも無言と、随分愛想が悪い。別に偉そうな対応、というわけではないにせよ、あんまりいただける対応ではなかろう。再入場するときは別の係員が立っており、「おーすごいねー」と、こちらはごく普通の対応であったが。

 成田発の電車には、各ボックスに一人ずつという程度の乗りであった。発車後すぐ、特急「あやめ」とすれ違う。

 久住は待合室があるだけのさびしい無人駅。駅周辺は畑で、あちこちにとまったカラスが鳴いているが、駅前は開発が行われている模様である。ただし、ここから先の駅は、佐原までは大半が有人であっただけに、意外といえば意外ではある。エアポケットのように、ここだけがほとんど手がつけられていなかった地域なのだろうか。

 進めど進めど、畑と荒れ地が進む。農家はそれぞれ生け垣を作っている。水郷で遊ぶ子供の絵が壁面に描かれたアパート、そして真新しい一戸建て住宅が見えてくると、大戸である。無人駅のようだが、駅周辺には、意外と家が多い。

 家が徐々に詰まってくると、佐原に到着する。生意気にも(といったら妙かも知れないが)本屋前に入線。ホームより一段低い、風格のある駅舎は相変わらずである。ここで乗客の大半が下車し、じいさんばあさんが乗り込む。右手前の切り欠け式ホームに停まる鹿島線のほうが客が多そうだ。

 香取は、鹿島線との分岐駅であるが、運転系統上の分岐は実質的には佐原であり、香取自体は貨車改造の待合室があるだけの無人駅である。香取神宮の威光は夙に名高いが、参拝客も佐原を起点としているのだろう。ホームにはけっこう多くの人がおり、下車客もいるが、観光客らしき風体の人は見当たらない。砂利の敷かれたホームは割と幅が広い。

 家は意外と途切れない。水郷は、住宅と農地に囲まれた寂しい無人駅。人気もない。

 ひたすら耕地の中を進む。左手はるか彼方、煙突から煙が上がるのが見える。住宅が増え、左へとカーブすると、小見川に到着、ここで反対列車と交換する。ごく平凡な駅舎が建つ有人駅で、大きい駅前広場を備えている。ここでかなりの乗車がある。上り電車は各ボックスに2人くらい乗っている。

 下総橘は一面一線、シンプルな駅舎が待つ。駅前通りには「歓迎」の文字。農協倉庫があり、乗車客は割と多い。次の下総豊里は、駅舎はあるものの無人。ここも乗車が意外に多い。

 左に利根川がちらちらと見えるが、距離は割とあるようで、間に家が入るとすぐに見えなくなる。黒塗りの壁がずいぶん風格のある椎柴で、中学生などがばらばらと乗ってくる。味のある駅舎であり、一度降りて結構をじっくり眺めてみたいが、そうもいかない。各ボックス2~3人程度に。中学生が車内を賑やかにする。「停止信号のため」しばし停車。

 松岸10時16分着。この電車は終点の銚子まで行くが、「最長片道」ルートは一つ手前のこの駅までである。

 松岸は、利根川渡航の拠点として栄えた時期もあったというが、のち、銚子にその座を奪われ、現在は銚子市の郊外というべき位置にある。日も高くなり腹が減ってきたこともあって、松岸駅近くのスーパーで弁当を購入する。吹きさらしの風が身を打ち付ける。

 松岸10時41分発の総武線電車には、2~3ボックスに1人程度の乗りと、随分空いている。家も佐原経由よりも少ない感じがする。ガラガラなので、何の気兼ねもなく弁当を食べる。

 駅前にマンションが立つなど、人家の多い飯岡は、真っ白で丸い独特の駅舎であった。

 干潟は二面三線だが、海側の線路は撤去されている。駅名こそ干潟であるが、干潟はおろか海などまったく見えない。このあたりは九十九里海岸の砂浜がずっと続いているはずだが。駅名の由来がなんなのか、非常に気になる。

 住宅と田畑とが混在する中を走る。ガラス越しに穏やかな太陽光線を受け、うとうとと眠る。

 11時30分、成東着。東金線との分岐駅であり、ここで東金線に乗り換える。

 これから乗る東金線は、総武本線と外房線とを結ぶ路線で、ちょうど中間点付近に東金が位置する。今日乗る中では唯一の「地方交通線」でもある。

 成東11時34分発の電車は、横須賀線と同じ色をした4連で、シートがリニューアルされていた。松岸方面から走ってきたのと同じ方向に進むと、すぐに左へと総武線が分かれ、こちらは右へと大きくカーブしていく。

 求名(ぐみょう)は、非常に広い島式ホームの無人駅で、ホームから跨線橋が両側に延びている。ここからかなりの人が乗りこんでくるが、特に人口密集地のようにはみえない。何があるのだろうか。

 東金では、なぜか進行方向右側(本屋側)へ進入。ここで乗客の大半が入れ替わる。市制を施行している町の中心駅だけあって、かなり大きい駅である。玄関の開口部が大きく、これまでの駅舎とは一風違う貫禄を示している。

 福俵は一面一線の無人駅。大黒様を連想させ、ずいぶんとおめでたい駅名ではある。沿線には住宅と田畑とが連なる。

 淡々と進み、わずか4駅で、終点の大網に到着する。11時52分着、わずか20分足らずの「地方交通線」であった。

 大網は、ずいぶんと面白い形をした駅である。外房線ホームと東金線ホームとが、三味線のバチのような形で扇形を作っているのである。しかも、つい最近まで、扇形の弦の部分には、外房・東金両線を短絡するレールが走っていたというのだから、なかなかに複雑である。要は、この付近における鉄道交通の要衝であった、といえよう。別に人口が密集しているわけでも何でもないのに、律儀に高架化されているのもうなずける。もっとも、扇形をしているからといって何も高架化して昇降の手間を掛けさせる必要は本来はないのであって、近鉄の橿原神宮前駅のように、踏切で簡単に乗り換えられるほうがはるかに便利がよいのだが。

 大網11時58分発の外房線電車は、各ボックスに2人程度の入りである。三角線の跡はすっかり草に覆われているが、今なお痕跡をたどることは可能だ。

 新茂原駅のかなり北側に、JR貨物の広告看板のある貨物駅があり、屋根付きのホームや側線があるが、線路は完全に草むし、貨車の一台も停まっていない。廃止された駅であろうか。

 高架線となり、建ち並ぶビルの群に突っ込むように、茂原に到着。ここで今までの客が下車し、かわって中学生が乗ってくる。推薦がどうのこうのと話している。車内は前よりも賑やかになる。

 多くの留置線が右に見えてくると、上総一ノ宮である。東京駅から入ってくる総武快速線は、この上総一ノ宮までになる。ここからは新しい家は減り、純然たる農村地帯になっていく。

 また少し眠る。いすみ鐵道の乗換駅である大原で乗客の大半は降りてしまい、車内は閑散となる。ここですっかり寝てしまう。

 勝浦に着いたときには、車内にはほとんど人はいなかったようにさえ感じたのだが、ホームに降りると、ぽつりぽつりと歩いている。いったいどこに座っていたのか、と思う。

 勝浦駅では、今なおゴミ箱が撤去されていた。この付近はつい最近複線化されたそうで、駅前にそれを記念する碑が立っている。ここでしばらく次の列車を待つこととなるが、外房線の末端区間は列車本数が少ない。それでもまだ普通列車があるだけ良い、とするべきであろうか。

 外の雲模様が怪しくなってくる中、入ってきた電車は、案の定ガラガラであった。ここから左側に海を望みつつ走ることになる。発車間際に一羽のハトが紛れ込み、ドアが閉まる。ハトが電車に閉じこめられたことになるが、このハトはご丁寧に次の鵜原で降りていった。窓が閉まっていたので監禁状態にされていたわけだが、間抜けというか何というか、あるいはわざわざ電車にタダ乗りして羽を休めていたとみるべきか。この鵜原で、上り遅れのため暫く待つ。当方を待たせた特急「わかしお」はけっこう混んでおり、通路側まで人がびっしりである。

 カーブや勾配が多く、なかなかスピードが出ない。切り通しやトンネルを繰り返し、このあたりの地形がなかなか急であることを物語る。

 行川(なめかわ)アイランドは一面一線の無人駅。観光客がまとまって乗り降りするときにのみ賑わう駅なのであろう。以前は臨時乗降場扱いだったはずだが、いつの間にか通年営業となった駅である。

 安房小湊は重厚な木造駅舎で、国鉄型の行灯型駅名標が壁にかかる。地元のじいさまばあさまが乗ってくる。

 安房鴨川到着14時29分。下車時、「うひゃー、すごいねー、これ」という反応が帰ってくる。

 安房鴨川からは内房線となるが、内房といい外房といったところで、千葉(正しくは蘇我)から分岐した両線がどこで交わろうと、実際に乗る場合には関係ない話である。この安房鴨川で、君津から先の自由席特急券を購入する。特急に乗るのは館山からだが、この列車が実際に「特急」として特別料金が必要になるのが君津から先の区間だけだからである。

 安房鴨川15時15分発の列車は4両編成、それなりの乗車率である。太海で交換、対向列車は1ボックスに3人は乗っている。シュロ状の樹が生え、海沿いの斜面に小さな畑がある。鴨川までの農村風景とは違い、潮の匂いが生活の中に染み込んでいるように見える。

 和田浦には、駅からほど近いところに郵便局が見える。もちろん、今ここで降りても仕方がないのだが、いつか降りたい、と思う。

 南三原で、ここまで乗ってきた中学生がいっせいに下車する。乗ってくる客はそれなりにいるようだが、当方の先頭車両へは乗り込んでこなかった。

 JRバスが連絡する千倉でかなりの乗車があり、各ボックスに2人以上の乗りとなる。海からは離れてしまい、水面はもう見えない。九重では、すでに日が西に傾いてゆく。

 館山到着16時。関西育ちの私には、「たてやま」は立山という連峰を先に連想させる思考回路が定着してしまっているが、関東圏では館山が先に思い浮かぶのだろう。全国区ではどちらになるのだろうか。

 館山16時6分発の特急「さざなみ16号」は、2列シートに1~2人ずつである。特筆するべきこともない平凡な特急電車である。もともと「房総特急」といえば、停車駅は多く所要時間もかかるといった「特急らしくない特急」というニュアンスを濃厚に込めた表現であり、実際私も今まで房総特急に乗ったことは一度もなかったのだが、この「さざなみ10号」は、内房線から京葉線を経て東京へ向かう。このルートは、「最長片道切符」の経路そのままである。こういうルートを取ってくれる列車がある以上、それには敬意を払いたい。もちろん、最長片道切符利用者の便を図ったルート設定になっているわけではないので、別にありがたがる必要はないのだが。

 有人駅の宮浦は、煙突状のものがにょきにょき屋根に突き出す真新しい駅舎を構えており、木造の白基調をしている。トンネルや切り通しの間に見える海が、おだやかで、ふわーっとあくびをしているように見える。

 保田駅には小振りな花壇あり。ぼつぼつ外が暗くなってくる。

 浜金谷で、初めてまとまった下車客がある。神奈川県の久里浜との間を結ぶ東京湾フェリーの乗換駅である。駅は小振りの木造駅舎で、曲がっていた。

 上総湊では、徐々に看板の文字が読みにくくなる。乗降とも、あまりない。

 君津での下車はさほど多くないが、それでもこれまでの中では一番多かった。6連の列車が行き違いのために止まっている。すでに外は真っ暗で、照らされていない真っ黒な空間のことはよくわからなくなってくる。

 ここから特急列車としての有料区間となるが、それでも各シート1人程度と、館山発車時に比べても、むしろ空いている。ここで、青シャツに黄帽の人がビニール袋片手にゴミを集めに回るほか、シートを進行方向に戻したりしている。

 検札が回ってくる。特急券は「はい、東京までですね」と普通だが、乗車券は、「はぁー…59日間…」と、有効期間を見て反応が止まる。経路をしっかり確認していたのは良し。

 蘇我ではかなりの人数が下車する。この列車は千葉や総武線とは関係ないルートを通るので、そちら方面に行く人であろう。対向ホームには満員の電車が止まっている。もう次は終点の東京であり、京葉線電車は頻繁に走っているのだが、ここからも乗る人がいるのには驚きである。やはり「座って行く」というだけでもかなり違うのか。

 ここから京葉線となる。高架に入り、急に速度が上がる。

 東京ディズニーランドを前にした舞浜の明るさは凄い。ここで青い普通電車を抜く。

 終点の東京駅に到着する前に車内放送があったが、ここで懐かしい鉄道唱歌のオルゴールが鳴った。新しい車両では、そもそもこのオルゴールを聴くこともほとんどないのだが。

 東京駅到着18時2分。京葉線のホームは、他のホームとはずいぶんと違う場所にあり、山手線に乗り換える場合などは、東京駅の山手線乗り場に行くよりも有楽町駅に行ったほうが早かったりする。これほど乗り換えが面倒な駅も珍しい。

 いったん改札外に出て、すぐに中央線乗り場へ移動する。「最長片道」ルートは、ここから中央線経由で新宿、そして西国分寺へと繋がる。

 東京から新宿までは、中央線快速で14分間。御茶ノ水までの通学定期を持っている当方としては、この区間が「最長片道」に入っているとはいえ、そんな意識を微塵も抱かせることのない乗車になってしまうのは、致し方なかろう。

 新宿到着18時31分。今日の「最長片道」はここまでとし、いったん自宅に戻ることにする。ここから、私鉄の小田急線に乗り換える。1時間強の所要時間である。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
83rd新宿619→秋葉原647(山手線電車)
84th秋葉原654→錦糸町659(総武線各駅停車)
85th錦糸町702→千葉737520S
86th千葉755→成田827729F(快速・エアポート成田)
87th成田903→松岸1016433M
88th松岸1041→成東1130348M
89th成東1134→大網1152644M
90th大網1158→勝浦1257251M
91st勝浦1400→安房鴨川1429257M
92nd安房鴨川1515→館山1600728M
93rd館山1606→東京18025166M→18M
(特急・さざなみ16号)
94th東京1817→新宿1831(中央線快速電車)
乗降駅一覧
秋葉原、千葉、成田、松岸、勝浦[NEW]、安房鴨川、東京
[NEW]を付しているのは、この日にはじめて乗り降りした駅です。

2000年12月5日
2007年2月20日、修正

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