第14日(2000年1月8日)

新宿-西国分寺-武蔵浦和-大宮-倉賀野-拝島-立川-川崎-品川-新川崎-横浜-根岸-大船-国府津-松田

 3日前に房総をぐるりと回ってきたが、今度は群馬から神奈川までの地域になる。要は首都圏であり、自宅を出て自宅に戻る、言うなれば「日帰りコース」を取ることになる。関東の近郊のみを行き来するわけで、刺激はあまり期待できないし、意識しないと乗ろうという気も起きないような線区もまわるのだが、やむを得ない。そういった区間も含めてこその「最長片道」であろう。

 自宅を5時15分に出て、あまりにも乗り慣れている小田急線の電車に乗り込む。三連休初日のせいか、ふだんの始発電車以上に混んでいるようだ。この始発列車は新宿まで直行するが、乗降にさほど時間がかからないうえ、電車の本数が少ない時間帯ゆえ、本当に速い。いつもこんなスピードで通勤・通学できれば、それほど不満は感じないだろうに、などと思う。

 本日の「最長片道」コース起点にあたる新宿は、日本で一番乗降客の多い駅としても有名である。ラッシュ時の人の多さはいうまでもなく、昼間だろうが夜だろうが早朝深夜だろうが、いつだって人がいるのだから、実に不思議な駅である。

 新宿6時20分発の中央線は、オレンジ色の快速電車ながら、大久保と東中野にも停まる各駅停車である。この時間帯は、中央線の電車は各停で、総武線各停は御茶ノ水以西には乗り入れてこないためである。1シートに3~4人と、早朝の下り電車にしてはずいぶんと乗っているものだが、なぜか次の大久保で大量に下車していった。東中野でも割と多くの客が降りていく。こんな時間から用事があるというよりは、徹夜で遊んで今帰る、というパターンの方が想像できそうである。

 まだまだ外は真っ暗で、各駅に停車してはドアが冷気を空いた車内にそそぎ込む。体が固くなる。昼間ならば賑やかなはずの中野や荻窪、吉祥寺なども、閑散としたものである。

 西武多摩川線が分岐する武蔵境あたりから、次第に空が明るくなる。

 国分寺付近で、一時地上を走る。国分寺での乗車がけっこう多い。

 西国分寺到着、6時54分。結局、特に印象に残ることもなく、武蔵野線の乗換駅に着くこととなった。

 階段を登り、武蔵野線ホームへ進む。ここで、自宅から持ってきたバナナを食べる。ぼちぼち通勤客なども見え始めるが、そういった中、ホームの端っこの方でもくもくと黄色い果物を頬張る様は、滑稽というか不気味というか、ともかく場違いなものであろうことは想像に難くない。しかし、奇異の視線で見られることもあまりないのは、やはり東京近郊だからだろう。

 入ってきた武蔵野線電車は、ロングシート一列に4人ぐらいの乗車率であった。西国分寺6時59分発東京行きなのだが、東京に行くのであれば中央線の快速電車に乗った方が圧倒的に早く着くから、この電車で東京に行く人はまずいないだろう。もし「東京行き」という言葉を真に受けてしまう人がいたら大変だが、などと、いらんことを考える。実際に乗る人がいたとしても、おそらく私のようなまともでない手法にこだわる連中だけであろう。

 発車後しばらくして、長いトンネルに入る。切り通しや高架の多い武蔵野線であるが、このあたりは土地自体が高いところにあるため、トンネルも多い。このため、ちょっと大雨が降ると、水に浸かって運休ということも多いのだが。

 新小平は、トンネルの中の駅であった。武蔵浦和寄りで、少しだけ外が見えるものの、基本的には穴蔵駅といえる。

 トンネルを出ると切り通しとなり、外は見えない。再びトンネルにはいると、新秋津。ここでかなり乗り、座席がほとんど埋まる。ここから高架となり、窓の下には住宅が広がる。鉄道交通の便でいえばやや中途半端である地域という印象があるせいか、自家用車の保有率が高いように見える。

 再び切り通しとなり、新所沢。さらに短いトンネルを越え切り通し高架に出て、と、めまぐるしく風景が切り替わる。貨物輸送を主体として建設された武蔵野線の勾配が急であるとは考えられないから、土地の起伏が相当に激しいのであろう。住宅と田畑が混在しているのが見える。

 左手に大規模な貨物駅が見え、それが終わると新座に到着する。高層住宅等が多い。北朝霞駅周辺にはビルなども多く、乗客もかなりある。

 荒川を、非常に長い橋で渡る。ずいぶん河原が広いものだ。

 西浦和で、中学生が多く乗ってくる。部活か、はたまた試合なのか。寒い中をご苦労なことだと思うが、第三者から見れば、こちらの方がよほど酔狂となるのかも知れない。まあお互い様だ、ということにしておこう。

 武蔵浦和着、7時24分。この駅で乗り換えるのは初めてではないが、来るたびに「苦しげにつけた駅名」であることを実感する。「麻雀ができる」ことで有名な浦和各駅(浦和、東西南北の各浦和、中浦和、そしてこの武蔵浦和)であるが、次にできるとすれば何だろうか。まさか「白浦和」ってことはないだろうが、もう少し実地名に即した駅名にはできなかったのか。

 ここから乗る埼京線は、正確には東北本線の一部である。「埼京線」は、国鉄時代末期に、埼玉と東京とを連結する路線として、赤羽-大宮で新幹線に併設する形で作られた路線だが、その際、独立した路線として認められたわけではなく、赤羽-大宮の正式名称は「東北本線」とされたのである。いっぽう、事実上の新線となった恵比寿-新宿-池袋は山手線、埼京線が直通する大宮-高麗川は川越線のままである。では、池袋-赤羽はどうなっているのかというと、埼京線開業前からの路線名である「赤羽線」の名前が残り、それが現在も存続しているのである。実際には、路線案内などに「赤羽線」の名前が載ることはまずないけれど、この区間は一応独立した線区となっている。もちろん、公式の路線名など、知っていても何の意味もないし役に立つ可能性は皆無であり、それは「最長片道」の旅行者にも等しく妥当することなのではあるが。

 武蔵浦和の駅で、埼京線のホームへと移る。目の前には、東北新幹線の線路がある。丸目丸鼻の新幹線が通過していく。本家本元の東海道・山陽新幹線では姿を消しているデザインなのだが、今となってはどことなくお茶目で親しみやすさを感じるものとなっている。丸い目と丸い口のハニワを連想するのは私だけだろうか。ホームでは、ラテン系外国人が缶コーヒーを飲みながら談笑している。

 ここから乗る埼京線の電車は、7時35分発。席が全て埋まる程度の混雑であるが、駅ごとに乗る人のほうが多い。新幹線への移動なのか、あるいは単に大宮への流れが大きいのか、それはわからないが。

 高架の向こうに高層住宅、というパターンの景色がひたすら続く。車内には、スキーを持つ人が多い。

 特にこれといって目新しいものもなく、淡々と走り、大宮駅到着、7時47分。

 大宮駅では、乗り換え時間が10分ほどあるので、かけそばをすする。先程のバナナだけでもカロリーは補給できているとは思うが、旅行を続けていくと体重が減少するのが私のいつものパターンでもあるので、食欲があるときには食べる、という鉄則に従っておく。あまり美味くはなかったが、こんなものであろう。

 高崎線7時58分発の高崎線列車は、11連で、各ボックス3人程度の入りである。西側に車庫が広がる中を進むが、右側には謎の空き用地が線路に沿う。複々線化用地を確保でもしているのであろうか。この用地が切れると、一戸建て住宅が続く。

 このまま、高崎線の電車にずっと乗っていっても構わないのだが、倉賀野で乗り換える八高線の列車本数が少ないので、いろいろな駅に降りてみたい。時刻表を繰り、適当な駅に目星をつける。幸い、この区間での乗降済みの駅はほとんどない。

 上尾着8時8分。ひとまずはここで降りる。

 上尾駅では、下車印は左上隅に捺してもらった。

 駅の東側は、ペデストリアンデッキが駅前広場上に整備され、「アリスベール」なるショッピングビルができている。また、東武ホテルもあった。一方、西口に足を運ぶと、ロータリーにタクシーがいっぱい並んでおり、都市銀行にイトーヨーカドーと、鉄道郊外駅の基本パターンをおさえた装置が揃っている駅、とでも言えそうである。

 改札を再入場する時、駅員氏が「あ、さっきの(方)」と一言漏らした。確かに、「あの」切符を見せれば、そう簡単に忘れることはあるまい。あまり悪いことはできないな、などと思う。

 次の列車、211系の3扉ロングシート車であった。ロングシートに長時間乗っていてもつまらないものである。

 桶川でかなり下車。ここから、左手に工場が続くようになり、車窓はどうにも殺風景である。

 籠原9時2分着。ここ止まりの列車が多いことから容易に想像はつくが、数多い車両が留置されていた。

 この籠原で、前部車両を切り離す。そのまま乗っていってもいいが、いったんここで降りることにする。下車印は経路上に捺される。軽く駅前を歩くが、とくに印象に残るほどのものもなかった。

 籠原9時19分発の列車は、またもオールロングシートである。高崎線の列車のロングシート比率もずいぶん高くなったものである。

 深谷でかなり下車する。この深谷から畑が急に増え、北関東の農工業地区へと車窓が転じる。

 石油タンク車が留置されていた岡部を過ぎ、本庄から先、左手に沖電気を始めとした工場が連なる。もともとは中山道沿いの宿場町だったのだが、内陸工業地域の一角をなす地域でもあることを実感する。

 新町9時40分着。実直な感じの駅舎を見て、ふらふらと下車。

 新町駅では、

「はー、すごいなー…こりゃー…どのくらいかけて回るの?」

「降りたところがわかるほうがいいんだろ?」

といった反応。こういった応答にもある程度慣れてしまった。

 駅ホームの片隅に、石を使った小庭園があった。寒いので、自販機に足を運び、お茶を飲む。駅前看板によれば、関東で一番面積の小さい町だそうである。

 新町発10時1分発、快速「アーバン」は、またまたオールロングシート。ロングシート車が適当なのは、旅客の平均乗車距離が短いケースだと思うのだが、乗車距離が本当に短いのだろうか、と思う。ロングシートでなければさばけないほどの混雑であるとも思えない。このあたり、不可解な設計ではある。

 倉賀野10時6分着。キリンビールの工場が隣接する駅だが、鉄道ファンには「高崎線と八高線とが合流する駅」といった方が通りがよい。駅自体はどうということもない橋上駅舎で、特筆するべきこともない。

 倉賀野駅では「はー、捺すトコないねー」と、経由下に下車院を捺される。

 ここから乗る八高線は、八王子と高崎とを結ぶ路線であるが、実際には八王子と高崎との間を真っ当に結ぶことを目的としたというよりは、関東平野西端に連なる谷口集落を結ぶ目的で敷設された、と見るべきであろう。しかし、東京一極集中の構図は関東の鉄道路線図を見るまでもなく明らかで、拝島・飯能・高麗川・越生・寄居といった各駅は、東京方面と短絡する路線が発達しており、八高線はローカル輸送に甘んじている。

 人口密度が高いの割に地味な路線であるが、東京に近いにも関わらず、車窓は基本的にのどかであり、のんびりできる路線でもある。南のほうでは、米軍が使用する横田基地に隣接する区間が多いため「のんびり」とはいかないものの、せせこましさから解放されたい、という時には、ふらりと乗ってみたくなるような路線ではある。

 そんな八高線の列車は、25分の待ち合わせで入ってきた。キハ110系ワンマン2連、2+1列ボックス車という、JR東日本のローカル線にはよく見られる車輌であった。空きボックスもある、という程度の乗りである。鳥川を渡り、高崎線と分岐すると、すぐに北藤岡。カーブ途中のため右側に傾いたまま停車する。目の前に高崎線の線路があるが、あちらには駅はない。このように「幹線には駅あり、ローカル線には駅なし」というパターンは、東日本と九州でときどき見られるが、九州以外の西日本ではあまりないな、などと思う。

 田畑の中を進み、上越新幹線をオーバークロスする。何度も乗ってきたものであるが、下から見ると、やはり大きい。

 家が増えると、群馬藤岡。広大な駐輪場があり、ここでかなりの乗客がある。対向式ホームで、木造の駅舎は白塗り、柱は肌色で落ちついた感じがする。藤岡市の中心駅であるが、鉄道がこの八高線だけという反面、道路交通の要衝であるという面も見れば、市民の基本的な「足」は自家用車なのであろう。

 人家と畑の混在する中を淡々と進んでいく。

 神流(かんな)川を渡る。丹荘は有人駅、小ぶりで古い駅舎がどことなく可愛い青いホーロー板に白地で書かれた「丹荘」の文字が目を引くが、乗降はなかった。

 有人の児玉で、若干の乗客があった。駅にはダルマが置かれている。そういえば、上尾や籠原にも置かれていた。ダルマは群馬県の象徴として扱われているのだろうか。

 のどかな景色に囲まれ、しばらく眠る。刺激がさほどない八高線は、居眠りに最適な路線ではある。

 寄居で乗客の相当数が入れ替わる。池袋方面への東武鉄道、および熊谷・秩父方面への秩父鉄道への分岐駅であり、八高線北半分では最大のジャンクションと言える駅である。ここで交換する。以前、ホームで列車の撮影に夢中になり、荷物を車内に置いたまま列車が発車してしまったという失態を、この寄居で演じてしまったことを思い出す。

 切り通しを下り、川を渡る。折原から先は、荒れ地や笹藪の中へと入り、次第にゆるい下り坂を進む。家が断続的に出ると、竹沢。規模もさほど大きくないので無人駅かと思ったが、有人駅であった。

 小川町で、いったん分岐していた東武東上線が再合流する。左手には、東武線4扉急行が停車中。こちらは短編成のディーゼルカー、あちらは大手私鉄に典型的なロングシート電車。ホームが違うと別世界である。

 東上線の上を越える。このあたりにくると、高層マンションまで見られるが、八高線の車窓としては場違いに感じられてならない。右に曲がり、再び丘陵地帯に入る。

 明覚は、ログハウス調の駅舎であった。ここまでは古典的な駅舎ばかりだっただけに、目を引く。

 毛呂でかなりの下車があり、乗車も多く、3分停車して対向列車との交換を行う。この間に列車の写真を撮る。

 終点の高麗川到着は、11時56分。ずいぶん長いこと乗ったものだが、それでも、家を出てから乗り続けてきた電車に比べれば、時間の経つのが短く感じられる。

 高麗川では、大宮方面への川越線が分岐するが、わが「最長片道」ルートでは、このまま八高線を南下することになっている。しかし、高麗川以北は非電化でディーゼルカーが走るものの、高麗川以南は電化されていて電車が走るため、運行体系は完全に分離されている。従って、ここで乗り換えということになる。

 高麗川では下車せず、12時9分発のウグイス色103系4連に乗る。ここからも「八高線」なのだが、毎日のように乗り慣れているこの種の電車だと、どうしても面白みがない。

 雑木林が続く。林が途切れると急坂を下り、西武線との接続駅である東飯能に到着。ここで半分近い乗客が下車、若干乗る。西武の特急が通過していった。

 国鉄型駅名標が健在の金子で、かなりの乗車あり。風格のある、しかし小さい駅舎が良い。周囲には新しい住宅が多く、新たに造成中の土地も多い。

 しばらく走ると、巨大な工場が左手に見えてくる。砂利が多いことから、セメント工場と推察できる。また、フェンスなどがしばしば見えるようになるが、これは横田基地であろう。

 拝島12時34分着。ここまでくると、完全に東京の通勤圏である。

 拝島では風が冷たい。ここも降りず、そのまま乗り継ぐことになる。この先は、青梅線、南武線、京浜東北線、横須賀線、根岸線など、純然たる郊外電車ばかりである。

 拝島12時41分発の青梅線電車は、わずか4両なのでかなり混んでいる。ドア付近は身動きがとれない状態である。アメリカンスクールの学生が多いが、彼らは昭島で下車していった。昭島に学校があるのだろうか。

 立川着12時52分。非常に規模の大きい橋上駅舎である。

 立川で、2本目のバナナを食べる。ここからは南武線に乗って川崎まで行くことになるので、青梅線とは正反対の、いちばん南側のホームへと移動する。

 立川12時58分発、立ち客のある状態で発車する。次の西国立でかなり降りるが、この「西国立」という不思議な駅名はなんとかならないものか。

 手話でやり取りする人や、サッカーの小学生たちも乗っている。駅前広場がない駅がけっこう多いのは、もともとが私鉄であり、のちに国鉄に買収されたという経歴を物語っているように見える。

 京王線の乗換駅である分倍河原で、乗客の半分近くが降りる。手話の人やサッカー小学生たちも、ここで降りていった。

 府中本町で、かなりの人が乗ってくる。東京競馬場が徒歩圏内にある駅であるが、手に手にその種の新聞を持つおっさんが多い。今日は競馬の開催日なのか、と思う。

 工場に囲まれた南多摩、住宅に囲まれた稲城長沼など、比較的規模の小さいコンパクトな駅が多い。これ以降、一部は畑もあるが、基本的に家が続いている。

 登戸では、小田急線の高架を下から見る格好になる。この上を何千回というスケールで通っているわけだが、さすがに大きいと思う。ここで乗客の半数近くが入れ替わる。座席がすべて埋まり、立ち客も出る。この先は沿線の人口密度がさらに高くなっていく。

 武蔵溝ノ口で少し降りるが、それ以上に乗ってくるため、車内は立ち客もかなり出る状態に。ビルが増え始め、高架・島式ホームの武蔵新城駅周辺は高層建造物ばかりとなる。ここからずっと高架のまま、川崎郊外を一直線に進む。ときどき工場が見える。武蔵中原から先になると、工場の比率のほうが高くなる。

 鹿島田付近から、こんどは地上へ降り、住宅が増える。ややくすんだ雰囲気の風景が広がる尻手の手前から、再び高架に上がる。セメント貨車が、ゆっくりと南方向へと走って行く。

 最後に高架を下り、左へカーブ、川崎13時53分着。前半の比較的のんびりムードに比べ、後半は上がったり下がったりと行ったイメージが濃かった南武線は、やはり川崎市内とそれ以外とで分けるのが理解しやすいのであろう。

 川崎では、東海道線ホームにすぐに移り、13時54分発の113系セミクロスシート車に間に合う。ここからいったん都内に移動することになるが、とにかく見慣れた風景を再現しているだけのことであり、特に大した印象に残ることもなく、ただ淡々と走る。

 次の駅は品川で、ここでもう乗り換えである。14時3分着。乗車時間は10分足らずである。

 品川では、いったん改札外に出る。以前、全席自由席時代の「大垣夜行」の席取りで馴染んでいたころとは様変わりしており、ちょっと面食らう。下車時に提示した切符は、ちらと見るだけであったが、こういう「変な客」も大勢扱っているのだろうか。コンコース向かい側の別改札にはいるが、こちらも似たような反応。

 ここから乗るのは、14時7分発の横須賀線の下り電車である。さきほどは川崎から東海道本線の上り列車に乗ってきたから、「川崎→品川→横浜」というルートを通ることになるのだが、これは横須賀線が川崎を通らずに別ルートを経由しているために可能となっていることである。「最長片道」にとってみれば、横須賀線様々、とでもいったところか。

 電車は、4扉セミクロスシート車。席の相当数が埋まるが、立ち客はない、という程度の入りである。

 品川駅を出て右へカーブし、東海道本線と分かれる。上に東海道新幹線がずっと覆い被さるため、どうにもうっとうしく、圧迫感を覚える。高架上を走っているが、民家は新幹線ギリギリに建っている。騒音や振動などの点で問題がないとは思えないのだが、どうなっているのだろう。

 西大井から地上に降りるが、引き続き新幹線の高架下を走る。起伏が激しいため、地平から高架へ、今度は切り通しへ、と、変化が大きい。新幹線とすれ違うが、さほど速いとは感じない。やはり、人家がすぐ側に迫っているこの区間では、スピードを出せないのだろう。

 多摩川を渡り、今度は左へ一気にカーブ。新幹線が徐々に右へと離れる。広大な用地におびただしい側線、それに数多い貨車を眼にしつつ、新川崎に到着する。

 左手に住宅、右手に広大な用地が広がる。確かこの周辺は、再開発によって情報通信に関する産学協同施設の建設予定があったように記憶しているが、どうなるのだろうか。再び高架になると、左手は工場群が埋め尽くすようになる。

 東海道本線に合流し、横浜には14時28分に着いた。

 横浜からは、根岸線経由で大船まで行く。

 桜木町止まりの電車が入ってくるが、桜木町は乗降済みであるうえ、何度も行っているし、一駅だけ乗っても仕方がない。電車を一本やり過ごし、横浜14時32分発の便に乗る。6扉車3人掛けロングシート車という、典型的な「詰め込み仕様」車輌であったが、なんとか座ることはできた。

 左にカーブして、高架を走る東急東横線と併走する。左手にそびえる摩天楼は、まるでタケノコのようだ。

 桜木町から、けっこう乗りこむ。東横線からの乗り継ぎか、あるいはランドマークタワーなどから戻ってきた客か。正月明けの昼過ぎという中途半端な時間帯ゆえ、客層はバラバラだが、これまでに比べるとずいぶん若い層が多いのは、やはり観光地ヨコハマの威力か。

 関内で、そこそこの下車客がいる。市役所に球場が目の前にあり、海の方に行けば神奈川県庁、別の方面には中華街と、横浜の中心地の一つといえる。

 右にカーブすると、すぐに石川町。ここでも割と降りる。トンネルを二つ抜け、坂の途中に家が建っているのを目にすると、山手。崩れないのが不思議な家の建て方であるが、大丈夫なのか。

 右手に高層住宅、左手に貨物駅の根岸は、島式ホームであった。磯子では、かなり多くの乗客がおり、ほとんどなくなっていた立ち客が再び増加する。

 このあたりからは、高架と切り通し、トンネルをひたすら繰り返す。窓から見える平地は少なく、崖に貼り付くような住居もあるが、先へ進むに従って緑が増えていく。丘陵地帯を無理に切り開いたのが横浜という都市なのだということが、ビジュアルでわかる。

 大船15時1分着。ひたすら丘陵地帯を突っ走ってきたせいか、この地が「平野」であることを実感する。

 大船では、少し時間があるので、いったん改札外へ出る。例によって切符を出すと、

「すごいですね…ここでよろしいですか」

と、経由別紙下側に捺印される。

 もっとも、降りたところで特にすることがあるわけでもないので、ほどなくホームに戻る。ホームにある立ち食いそばに手を出すと、黒いそばで、割とうまかった。

 15時19分発の快速アクティーは、「短い10両編成」というアナウンスとともに入ってきた。最長でも10両編成という小田急の電車に乗り慣れている身としては、なんだか違和感を覚えるアナウンスではある。全車輌が2階建であり、通常は2階席へと行くのだろうが、前に乗ったこともあるし、混んでいるようなので、今度は1階席に座る。ホームが肘のところに来るのは楽しい。視界も違うし、面白い。もっとも、視線を下の方へ下の方へと潜り込ませようとしても、当然のことながら、死角はきちんと確保してあるようで、残念。それはそうだろう、スカート姿の女性がホームを歩いているわけで、そのあたりはぬかりがない。

 工場の中を縫うように快走し、ビルが増えてくると、藤沢に停車する。すぐ左に小田急の急行が停車している。空はずいぶんと暗く、ひと雨くるか、と思う。

 茅ヶ崎は、街中に自動車駐車場がずいぶん多い。駅間距離も長いし、車なしでの移動は難しいのだろう。

 藤沢、茅ヶ崎と下車客が多く、次第に空いていくが、平塚で普通列車を接続し、ふたたびそこそこの入りになる。

 国府津15時44分着。往年の大駅だが、今では単なる一乗り換え駅である。

 国府津でいったん降りるが、特に駅前にこれといったものがあるわけでもない。下車客そのものも少ないので、わびしさだけがつのる。ここから御殿場線に乗り換えることになる。御殿場線はJR東海の路線であり、いよいよここから東海エリアに入ることとなる。北海道から始まり、東日本に移り、一時的に西日本に入ってから東日本に戻り、今度は東海である。

 16時10分発の電車は、ワンマン仕様の新型電車2連で、半自動ボタン式のドアを備えた3扉セミクロスシート車であった。立ってアイスクリームを食べる娘あり。

 しばらくは高架上を走り、景色がよい。しばらく、車庫への引き込み線が併走するので、一見すると複線のように見える。確かに戦前は、この御殿場線が東海道本線であり、当然のように複線だったのだが、丹那トンネル開通後は支線となったこともあり、戦時中に単線化されている。。

 ワンマン車内放送は、他社のものに比べてずいぶん丁寧であった。運賃箱・整理券発行機付近に立たないように、などといった説明まであったが、そこまでする必要があるのか、とも思う。

 交換可能駅である上大井も、ワンマン扱いであった。ここで交換した対向列車は、古典的な113系電車であり、当然、非ワンマンである。ここで、けっこう多くの客が下車する。ワンマン化開始が12月4日ということもあってか、車掌が乗務し案内をして回る。ここから左側に、複線用の土地がずっと続く。

 屋根のみの待合室と一面一線というシンプルな相模金子駅でも、やはり下車客は多い。発車時、いちいちチャイムが鳴る。

 松田は「まつだ」の「ま」にアクセントを起き、かつ、「ま」から「つだ」へと「高→低」というイントネーションでのテープ放送なので、なんだか調子が狂う。正面に山が見え、川を渡る。

 松田到着16時24分。駅本屋には行かず、小田急線連絡改札の方へ向かう。

 今日の「最長片道」はここまで。新松田から小田急線に乗り、自宅へ。アイボリーに青帯の電車に乗ると、一気に「日常」に引き戻される気になる。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
93rd新宿620→西国分寺654(中央線快速電車)
94th西国分寺659→武蔵浦和724635E
95th武蔵浦和735→大宮747715K
96th大宮758→上尾808835M
97th上尾825→籠原902839M
98th籠原919→新町940841M
99th新町1001→倉賀野10063921M
100th倉賀野1031→高麗川1156232D
101st高麗川1209→拝島12341162E
102nd拝島1241→立川12521116
103rd立川1258→川崎1353(南武線電車)
104th川崎1354→品川1403842M
105th品川1407→横浜14281343S(横須賀線)
106th横浜1432→大船1501(根岸線電車)
107th大船1519→国府津15443763M(快速・アクティー)
108th国府津1610→松田16242569G
乗降駅一覧
大宮、上尾[NEW]、籠原[NEW]、新町[NEW]、倉賀野、品川、大船、国府津、松田[NEW]
[NEW]を付しているのは、この日にはじめて乗り降りした駅です。

2001年8月13日
2007年2月20日、修正

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