第25日(2000年1月23日)

津山-新見-倉敷-福山-塩町-備中神代-伯耆大山

 もぞもぞと体を動かし、枕元の時計を見ると、6時。ふうん、もう6時か、と思うが、次の瞬間、今日のスケジュールでは津山6時11分発の列車に乗らなければいけないことを思い出す。昨日は早く寝たために目覚ましをセットしていなかったのがアダとなった。外でかなり飲んで部屋に戻ったせいか、荷物を散らかしていなかったのは幸いだった。

 顔も洗わずに大急ぎで服をまとい、ホテルを飛び出す。津山盆地の6時はまだ真っ暗で、冷たい雫がぽつりぽつりと額に踊るが、傘などさしていられるはずもない。

 改札口にだれも立っていない津山駅に着いたのは、発車2分前。なんとか息を整えながら、ホームへと向かう。運転士が

「どちらまで行かれます?」

と聞いてくる。ホームに列車がポツンと止まっている一方、私の姿形を見て旅行者と判断したゆえの配慮だろう。この程度の列車本数の駅では、やはり列車別改札のほうが合理的だな、などと思う。

 ここから乗るのは、姫新線の新見行き、クロスシートを備えたキハ120の2連ワンマンカーである。姫新線は「姫」路と「新」見とを結ぶ路線だが、昨日は姫新線を東津山から姫路まで乗り、今日は同じ姫新線を津山から新見まで乗ることになる。いわば、津山を核として東方面行きと西方面行きとを、同一のきっぷで乗りわけることになる。こんな奇妙な旅程にできるのも、最長片道切符ならではだろう。

 ほかには誰も乗っておらず、車窓も真っ暗なまま、こうこうと照らす天井の照明が妙にまぶしい。院庄、美作千代(みまさかせんだい)と、乗客はない。列車交換で4分ほど停車した坪井では、津山方面行きの列車には10数人が乗っているのだが、こちらに乗り込む人はやはりいなかった。

 大きな駅舎をかまえている美作落合でもワンマン扱いとなっていたが、なぜか駅務室のテレビがついていた。おそらく簡易委託なのだろうが、人の気配がないのにテレビがついているのは不気味である。

 吉見あたりから、景色がうっすらと見えるようになる。田畑と農家、そして薄く残っている雪。あまり高い山が目に入らないのは、地形の輪廻でいえば老年期に相当している中国山地のゆえだろうか。家々がグレーの背景にシルエットとなって浮かびあがる。淡々とした中国地方の農村には、モノトーンの描写がよく似合う。

 久世駅で4分間停車するあいだに、トイレに行く。この列車にはトイレがついていないのだ。対向列車は単行で、乗客は10人程度。一方、こちらは相も変わらず、2両で貸し切りである。

 しだいに民家が密集するようになり、津山-新見で最大の駅である中国勝山に到着する。ところが、この駅でさえワンマン扱いで、改札口の掲示によると7時30分営業開始とのことである。事前の情報どおり、駅舎の改修工事が行われていたが、駅務室や待合室などはまだそのまま使われていた。ここで12分停車するとのことなので、改札外に出るが、まだ真っ暗であり写真などとうてい撮れたものではない。金属製のラッチがあり、主要駅としての貫禄を示している。車内でのテープ放送では「蒜山方面へのかたはこちらで降りられると便利です」というアナウンスがあったが、この駅で実際に鉄道から路線バスに乗り換える人の比率はどの程度のものだろうか。勝山は武家屋敷街が河岸段丘上に残ってはいるが、観光地としての知名度はさほど高くないし、結局はローカル輸送の拠点にすぎないのだろう。その証拠に、と呼べるほど大げさなものではないが、ここでやっと乗客があった。

 待ち時間が長い割には、なぜか行き違いなどもなく発車する。ここからトンネルをいくつか越え、上り勾配にさしかかる。雪も少しずつ深くなり、田畑はほぼ一面が真っ白に覆われ、畝の部分のみが黒い。

 月田は、山小屋風に改築された駅舎である。女子高生が1人乗りこんでくる。対向ホームも残っているが、交換設備はとうに撤去されているようだ。

 やや広い谷の中を進む。耕地が作れる程度の平地があれば、必ずそこに田畑があり、農家がある。律儀なものだと思うが、決して急峻ではない中国山地とはいえ、農地を維持するのもたいへんだろう、と思う。

 道路に面した小集落に設けられた富原で、また女子高生が1人乗りこんでくる。左側には、垂直に近い感じで大きく切り立つ尾根があり、こんなのにはつきあえません、という感じで列車はその脇を避けて通る。数か所崩れた跡が見えるが、何があったのだろうか。

 大佐町の中心にある刑部で、列車交換のために7分停車する。和風の真新しくこざっぱりとした駅舎だが、そば屋を連想させる。上り列車を待つ人がひしめいている。構内踏切で上下線のホームを連絡するスタイルだが、ディーゼルカーの前を堂々と横切る男子高校生もいる。ここでわが新見行き閑散列車にも高校生が10人あまり乗り込み、やっと恰好がつくようになった。発車間際にわらわらと駆け込んでくる女子高校生が、行き違い列車の前を大声をあげて横断する。ずいぶん危ないことをするものだが、日常的な光景なのだろうか。

 次の丹治部でも、高校生など数名が乗ってきた。民家のような鉄筋コンクリートの駅舎が待つ。山の間から、雪が平地へぬっと流れ出している。

 ここからの上り勾配はかなり急で、軽量強力なキハ120といえども、けっこう難儀する。と、今度は急な下りに変わる。雨が降りしきる悪天候のせいか、下り勾配を非常にゆっくりと進む。徐行といってよい。

 左側から、中国縦貫道がアンダークロスしていき、新見には8時9分に到着。結局、新見までの中間駅での下車客は皆無だった。

 新見でもいったん改札を出るが、ここでは「はいどうぞ」で終わりだった。静かなたたずまいの駅前は、以前訪れたときのままである。乗り継ぎをする以外には特に何をしたわけでもなく、今回もすぐに次の列車に乗り込むのだが、少し時間を取って回ってみたいな、と感じさせる街だ。盆地の小さな街が鉄道のジャンクションというのは、特に朝においていい表情を見せてくれるように思う。

 新見からは、伯備線で倉敷へと向かう。この伯備線は、岡山県の倉敷と鳥取県の伯耆大山を結んでいるのだが、今日は午前中に新見から倉敷へ行き、午後には新見から2つ伯耆大山側にある備中神代から伯耆大山へと乗る予定である。姫新線と似たようなものだが、こちらは同じ日に別方向へ進むわけで、通常の旅行からの逸脱の度合いはさらにきわまったといえるだろうか。

 新見8時20分発の列車は、なんとオールロングシートでトイレなしの、105系4連である。どうして新見盆地でこんな車両に出会わなくてはならんのか、と思うが、いたしかたない。

 先頭車に乗っているのは8人で、広い構内を出て右へと進む。目の前の山にガスがかかり、麓が見えずに頂上付近のみがぼんやりと浮かんでいる。

 次の石蟹で、いきなり高校生がまとまって下車。扉の開閉は半自動式なので、外気はあまり入らない。古い駅舎で、国鉄の幹線にこんな駅が残っていたのか、と思う。すでに、さほど大きくもない新見の市街地から離れている。雪は日当たりの悪いところに局所的に残っているのみで、もう山間部とは呼べないのだな、と思う。

 井倉駅の目の前には、大きなセメント工場が建っている。左手に見える山は削られ、ところどころが白くはがれている。鍾乳洞で知られる井倉洞のあるところで、石灰石の産地でもあるのだろう。ここから先の井倉渓谷はなかなかの見物なのだが、ロングシートでそれなりに人が乗っているので、どうにも見にくい。

 北海道や一部の埋め立て地を除くと非常に珍しい、人名に由来するとされる方谷で団体列車と行き違いを行う。なぜか、ここでばあさんが数名まとまって乗ってくる。

 谷間が左右に広く開け、階段状に水田が見えるようになると、備中川面。なんとも安直な駅名だ、と思う。中高生が数名乗車。学校のほか、かなり立派な農家が並ぶ。

 車内はさして温かいとは思えないが、尻の下や足の裏から伝わってくる暖房が相当に強いため、ふくらはぎがヒリヒリしてくる。しかしロングシートでは、そう気楽に立ったり座ったりするわけにもいかない。山の斜面にはうすぎぬのように雲がからみつき、その下にはびっしりと民家がはりついている。

 城下町、備中高梁に到着する。ここからはドアが自動で開閉するようになり、伯備線も複線となる。跨線橋で駅本屋へと移動する、古典的な形状の駅である。降りたい、降りようと思いながら、スケジュールの都合上やむなく通過してしまう駅というのがいくつかあるが、備中高梁はまさにそんな駅だ。日本で現存天守を擁する最も高い山城を誇る備中松山城をはじめ、頼久寺庭園や山中鹿之助の墓など、ぜひとも足を向けたいスポットがたくさんあるのだが、なぜかここで降りるとその後の行程が大きく崩れてしまうのである。今回もそうだ。この街は、私のように鉄道をひたすら乗り継ぐタイプの旅行客には冷たいのだろうか、などと思ったりするが、逆恨みなのはまちがいないだろう。

 雨による視界の悪さは相変わらずで、遠景がぼうっと霞んでいる。眼下に見える高梁川には、石がゴロゴロ転がっている。

 農地の広がる中を、かなりのスピードで飛ばす。複線になったからというわけでもあるまいが、人口密度が高いとそのぶんだけ気合をこめて列車が進んでいるように感じられる。

 豪渓(ごうけい)という、なんともすさまじい名を持つ駅を出ると、車内は男子中学生や女子高校生のはしゃぎ声ばかり響く。外は霞がかってしまい、よく見えない。上り線と下り線とのレールが分かれ、抜けると元に戻る。再び耕地が広がる。

 勾配を下りつつ、左へとカーブする。ショッピングセンターが遠目に見え、左から吉備線のレールが寄ってくると総社。吉備線は地方交通線とはいえ、比較的人口密度の高い吉備路を走る以上、乗り換え客がかなりいると思っていたのだが、案に相違して乗車客がずいぶんと多く、ドア口にかなり人が溜まるようになる。

 ここからは平地を淡々と進み、倉敷には9時33分に着いた。

 倉敷から福山までは、山陽本線に乗る。列車は頻繁に運転されており、これまで何十回と乗ってきた区間なので、特に新鮮みはない。倉敷の橋上駅舎の改札口できっぷを提示したときには「どうぞ」という反応だったが、飲み物を買って乗り込もうとすると、駅員が変わっていて、きっぷを見て絶句する。

 ここの発車メロディは「いい日旅立ち」だった。すでに数十日の長きにわたって列車に乗りまくっているのだが、それでもこの曲を聴くと、旅に出ているって幸せだな、と感じる。1970年代生まれの私は“ディスカバー・ジャパン”世代ではないけれど、それでも名曲だと思う。

 倉敷9時47分発の快速「サンライナー」に乗り込む。車両は、もともと京阪神地区の新快速で使われていた117系4連なので、車両は古いといえども居住性はなかなかよろしい。しかし、1両にわずか6人と、ガラガラである。ワンマン運転となっており、案内放送はテープで行われる。

「なお、この列車は運転士がご案内いたしますので、きっぷの変更・乗り越し等は、駅でお願いいたします」

 金光教の街である金光で普通列車と接続するが、それでも1両に8人程度にしかならない。何ともしまりのない快速列車である。

 カブトガニと各種工業が盛んな笠岡を出ると、入り江、溜め池、湿地などが車窓に展開する。展望がよいというわけではないが、このように変化の大きい区間は、単調になりがちな山陽本線では珍しい。

 10時22分、福山の高架ホームに到着する。あっという間だ。

 福山からは、福塩線に乗り換える。福塩線は、福山と塩町を結ぶ路線だが、日本全国にあるJR線のうち、これほど存在感の希薄な路線もあるまい。沿線に著名な観光地がないばかりか、地形も平ならず急ならずの中国山地のひだに沿うて走り、沿線には松や竹が繁り、人口が希薄ながら決して無人地帯ではない。かの宮脇俊三氏も、この路線は乗るたびに居眠りしていたという。私はこの路線に乗るのは2回目だが、確かに前回は途中でうとうとしてしまった。今回は無事に“踏破”できるだろうか。

 福山10時30分発の列車は、濃黄色に紺帯という福塩線独特のカラーリングをした、105系ワンマン2連である。福山城を眺めながらしばらく西へ走り、高架を徐々に下りつつ、北方向へと進路を変えていく。次の備後本庄ですぐに下車する人もいる。交換設備は撤去されていたが、国鉄型の駅名標が赤錆びつつも残っていた。列車案内はテープで行われ、ワンマン扱いはするものの、車掌が乗務している。

 左側に、芦田川が沿う。伯備線の高梁川ほど明確ではないけれど、福塩線の南側も、やはり川の作った谷沿いに鉄道が敷設されている。

 横尾は、築堤上に細いホームが2本並ぶ無人駅で、下りホームは下り線と上り線とに挟まれている。島式ホームにもう1つホームを外側に設けた格好で、小田急の下北沢駅や京王の仙川駅のようなスタイルになっている。

 ぐいっと左へカーブし、神辺に到着する。井原鉄道の乗換駅で、けっこう下車客がいる。上りホームは人でいっぱいであり、ここで行き違いを行う。ちょうど井原線の列車が着いたところなのだろう、JR西日本のキハ120に似たディーゼルカーが止まっていた。

 温田、道上、万能倉(まなぐら)と、小ぶりな駅に丹念に停まるたびに、乗客が少しずつ降りていく。どの駅もその周囲に独特の空間を有しており、何ともいえない暖かさを感じる。特に万能倉には、民家や工場、倉庫などが建ち並び、独特の味わいがある。駅務室には灯がともっており、業務委託駅のようだ。車掌はここで降りていった。

 駅家でかなりの下車があり、なぜかまた別の車掌が乗り込んでくる。片面ホームのみだが、なかなか立派な駅舎を構えている。

 戸手で、高校生がまとまって乗ってくる。もとは交換可能駅だったとみえ、反対側のホームはそのまま残っており、駅名標も、なぜか上の部分がないもののきれいに残っている。しかし、架線柱が線路跡に建っていないことを見ると、かなり早い段階で交換設備とともに撤去されたのだろう。

 新市の駅舎は朱色の瓦屋根を載せたなかなか立派なもので、神社を模したものと思われる。ホームには「備後一宮 吉備津神社下車駅」という標柱が立ち、行灯式駅名標が下がっていた。吉備津神社は、岡山(備中)にある同名神社の分社で、発掘調査などでは12世紀ごろまでさかのぼれるという。ここで行き違いを行う。側線も一本残っているが、架線柱は見あたらなかった。

 高木の駅前には高層マンションが建っており、工場や社宅、人家が増えてくる。ここからしだいに府中の市街地へと入っていき、府中には11時12分に到着した。

 福塩線では、府中から南側が電化されて多くの列車が走るものの、府中から北側は非電化で列車の本数も大きく減っている。これは沿線の人口密度を忠実に反映しているものといえ、かなり規模の大きい都市である福山とこの地域の中核である府中とを結ぶ区間列車は、この府中でストップしている。福塩線は、ここを境に事実上2つの路線になっているといえる。

 府中市は家具製造や縫製業が中心の静かな街だが、東京にある府中市とまったく同名の市として知られる。これは、市制施行がほぼ同時に行われ、国がそのまま受理してしまったためらしい。その後自治省は同名市を認めず、茨城県で新しくできる市の名前を「鹿島市」としたいという地元の要望に対して、すでにその名称は長崎県にあるという理由で最後まで認めなかった。この際は「鹿嶋市」で落ち着いたという経緯がある。

 広島の府中に対してはその程度の知識しかないのだが、1時間弱の待ち時間があるので、ひとまず外に出る。ところが雨が降っており、なかなか行動するのは難しいようだ。やむをえず、駅前にあったコンビニで賞味期限切れの弁当を半額で購入し、これを車内に持ち込んで食べる。朝食さえとっていなかったことにあらためて気づく。

 ここから先を進んでいくディーゼルカーは、すでにすっかりおなじみになったキハ120で、単行である。クロスシート車で窓下にテーブルがあるのはありがたいが、なにぶんトイレがないので、アルコールを持ち込みにくいのが残念だ。

 府中12時9分発の列車には、30人程度の乗客がある。単行としてはけっこう多い。携帯電話で「駅まで迎えにきてください」というおばあさんがいる。

 下川辺から、ぐいぐいと登りとなる。線路は対岸の道路と並行し、車をじわじわと追い抜いていく。

 河佐から先の地形を地図で見ると、八田原ダムの建設によって谷が水没しており、その東側を福塩線がトンネルで迂回している。ずいぶんと長いトンネルだと感じる。暗闇の中に響くコーッという音に耳も体も慣れたころになって、やっと地上に出るが、到着した備後三川は霧の中に沈んでいた。ここで10人ぐらいがまとまって降りていき、かわって高校生が乗り込んでくる。

 備後矢野には、「うどん 田舎そば」という表記がある。駅舎でうどん屋を運営しているようだ。矢野温泉の玄関口だが、ずいぶん静かなものである。細いホームの交換可能駅である。

 府中と塩町の間ではもっとも大きい町である上下に到着するが、ここもワンマン扱いである。乗客の3分の2がここで下車し、替わって、小さいお子さまが4人と同伴者が乗り込む。親がときおり注意するものの、4人もいるとうるさい。駅前には工場や倉庫が建ち並んでいる。

 山の輪郭が不明瞭で、霧が視界を妨げている。列車は、ただいま等高線に沿って少しずつ進んでおります、というかのように、斜面をずりずりとのぼっていく。場所によっては雪がちらほらと見えるようになってくる。左手に見える弘法山の斜面には、野菜畑が広がっている。みごとな瓦を用いた、結構の立派な民家が目立つ。

 民家が途切れると、窓の外には雑木林が広がる。それも、松が見えたり、笹藪の中に入ったりと、なかなか変化がある。赤茶けた落ち葉が山を彩るが、意外にも雪はまったくない。

 三良坂は、鉄筋コンクリート造りの駅舎を構えていた。何らかの公共施設に間借りしているようだ。もとは交換可能駅だったようだが、対向ホーム跡は単なる植え込みと化している。例によって、交換設備はおろかレールも撤去されている。

 右側に、ゆったりとした緑色の馬洗川が流れている。三次盆地に入ると、ディーゼルカーはかなりの速度を出す。

 塩町には、13時23分に到着。なんとか最後まで居眠りせずに済んだが、やはりうとうとするのが似合う路線だという気がする。ここで、芸備線に乗り換える。下車時、ワンマン運転士にきっぷを示すと驚きつつもにこやかに「………おぉ、はい」という反応だった。

 塩町駅は島式のホームで、駅舎には地下道で連絡するという、ローカル線の駅にはあまりないタイプになっている。三次市の郊外で周辺には人家も多いが、前回訪れたときと同様、簡易委託であった。「三次風土記の丘」の最寄り駅の1つなのだが、ここから歩いて向かう人がどのくらいいるのか、やや心もとない。

 14時29分発の列車は、これまたキハ120のワンマンである。ガラガラで、なんと3人しかいない。このため、1ボックスをゆうゆうと占拠することになってしまった。

 中国山地とはかかるものなり、と語るかのように、水田と農村、ゆるやかな坂がひたすら続く。しかし、塩町を含めて、非常に狭い島式ホームを持つ駅がずいぶんと続く。もちろん、実際には各駅ごとに列車を行き違いさせる必要などなく、交換設備はとうの昔に撤去されている駅のほうが多いのだが。

 集落と呼べるかどうかわからないほどに人家が散在しており、それらにはそっぽを向きながら、わが列車は泰然と、思い出したように無人駅に停まる。駅の設置基準もよくわからないが、どの駅にも人っ子一人見あたらない。日曜日の昼過ぎなど、こんなものなのだろうか。

 下り坂になり、工場や体育館が見えるようになり、人家がそこそこ密集するようになると、備後庄原に到着する。庄原市の玄関駅なのだが、ここもワンマン扱い。なぜか模型の汽車ポッポがホームに置かれていた。乗降ともわずかだが、ここで急行列車と行き違いを行う。芸備線は、全国的にも非常に珍しくなった、急行列車が数多く走っている線区である。これもいつ消えるかわからないけれど。

 かなりの下り坂になる。右側には工場がパラパラと散在しており、この工場が途切れると、西城川の対岸に民家がこれまたパラパラと見える。スケールはまったく違うものの、木津川沿いの関西本線を思い出す。

 それなりの集落が見えてくると、高に到着する。ここで、数少ない乗客の1人が降りていった。木造の相当古びた駅で、列車交換は可能だが対向ホームにはワンマン用のミラーはなく、レールも錆びているなど、まったく使われていないようだ。

 平子は、蔵のような外観を取り入れた、比較的新しい和風の木造待合室を備えていた。片面のみで、ここも乗降なし。ここからだんだん山深くなり、両側の山が迫り、縫うように走る。川の流れも、心なしか冷たそうに見える。

 制動がかかり右にカーブすると、そこが備後西城。町はずれの寂しいところにある。ここで1人降り、とうとう車内は2人になった。駅左手には製材所があるが、現在は貨物の扱いは行っておらず、昔日の繁華をしのばせるにすぎない。

 神社建築を模したと思われる比婆山も、やはり乗降なし。この駅ももとは交換可能だったようで、ホーム跡が雪に埋もれている。ここからいよいよ急勾配になり、カーブが連続し、レールはうねうねと蛇行する。どこへ連れて行かれるのか、という気になる。夜にこんなところに来たら、心細くてしかたなかろう。そんなところでも、少しでも開ければそこには水田があるのだから、やはり人間とは律儀なものだ、と思う。

 備後落合には、15時20分に到着。木次線方面との乗り換え駅である。落合という地名は全国に数多いが、それらは谷や川が落ち合うところに見られる。この備後落合もその例に漏れず、西城川と天桶川との合流点に位置している。駅周辺にはほとんど人家は見られず、駅のみが堂々としたさまを示している。

 備後落合での接続はよく、わずか2分で次の新見行きが発車する。山間のひっそりした駅だし、ある程度時間があるほうがむしろよいのだが、列車の本数が少ない以上、これを逃すわけにはいかない。以前に下車したときにはまだ職員が常駐していたのだが、現在はさらに規模が小さくなっているように見える。

 私のほかには、備後庄原から乗ってきた若い女性がこの新見行きに乗り継いだが、乗客は結局この2人のみである。運転士氏は「お手洗い大丈夫ですか? しばらく待ちますけど」というが、大丈夫です、と答える。もうすっかりおなじみになった、これまたキハ120である。

 備後落合を出ると、すぐにトンネルに入る。

 次の道後山には、大きな観光案内図があるが、すっかり色あせている。古い民家のような実直な駅舎を構えているが、観光客の利用が多い気配はなく、駅周辺はひっそりとしている。しかし、屋根が二重になった、重々しい民家が多い。

 道路と平行し、今度は下り坂になる。再び耕地が出てくるが、もう雪一色である。顔を出す雑草から茶色が見られ、よいアクセントとなっている。

 右手に工場や集落を見下ろしつつ、うにゅうにゅとカーブを繰り返し、やがて広々とした盆地に出て行く。

 小奴可でやっと乗客がある。駅務室には灯がついていたが、業務委託しているようには見えなかった。保線の基地となっているのかもしれない。

 左側の山には、ひょろひょろと松が生えている。ほかの木はみな低木なので、あたかもキノコが生えているように見える。

 備後八幡には、車庫や側線などが整備されていた。峠越えに蒸気機関車が難儀していたころには、運転上の基地だったのだろうか。駅舎自体はシンプルなもので、現在も交換可能であった。

 このあたりから下り勾配となり、積雪もどんどん少なくなっていく。社宅と思われるアパートのほか、一戸建て住宅や工場も出現し、かなり大きい町に入ってくると、東城。ここで9人が乗り込み、車内にやっと人の気配が感じられるようになる。駅舎は白壁に茶色という和風のものだが、特に新しいわけではなく、最近リニューアルされたようだ。

 もはや日の当たらないところにのみ雪が残るという状態になる。谷はすっかり左右に開けてしまい、取って食うような両脇の山の雰囲気はもはやない。平地とも山地ともつかない、まったくもって曖昧模糊たる展開になる。

 備中神代には、16時23分に着いた。ここで伯備線の列車に乗り換える。

 備中神代でも4分の接続と、恨めしくなるほどに接続がよく、列車の写真だけ撮ってさっさと乗り換える。この駅のホームを踏むのははじめてなので、できるならば途中下車したいのだが、ここで乗っておかないと、伯備線を真っ暗の中で過ごすことになる。車窓が望めない列車に揺られていても仕方がない。

 発車と同時に芸備線と分かれる。113系3連の湘南色半自動扉で、久々のトイレ付き車両となる。車内を彩る女子高校生がにぎやかだ。山が霧に覆われているのはここも同じ。

 登っていくうちに雪景色となってきたが、どことなく感覚が鈍くなっているようで、また白くなってきたな、ぐらいにしか感じない。もともと、上越地方で感じられるような、白さのもつ荒々しさや迫力といったものには乏しいこともあるのだが、白くなったり黒くなったりといった変化を、数日にわたって何度も何度も繰り返してくると、視覚も怪しくなってくるのかもしれない。

 しだいに民家も農地も途切れていき、林ばかりになる。車内の女子高生は、何部のキャプテンがいいとか、どの先生が格好いいとか、他愛ない話で盛り上がっている。トンネルをいくつか越える。

 新郷(にいざと)で交換のために6分停車する。ここで6人の女子高生が全員降りてしまうと、静かを通り越していっきに寂しくなる。駅舎さえない寂しい駅だ。ホームは狭く、階段を下りると看板と時刻表があるだけ。周囲には人家などまったく見えないが、あの女子高生たちはどこへ帰ったのだろうか。足もとは雪でぐちゃぐちゃとなっており、歩くのもなかなかたいへんだ。

 発車すると後、右手に集落が見える。彼女たちの家は、ここにあるのだろうが、駅からはだいぶん離れている。ようやく雲が切れ、多少なりとも青空が見えるようになる。

 トンガリ屋根の山小屋風木造駅舎を持つ上石見で、「サロンカーなにわ」と行き違いを行う。かなり傾斜の急な屋根が多いが、このあたりは積雪がかなり多いのだろうか。

 すでに夕方の5時なのだが、まだ外がはっきり見える。西日本だな、と実感する。階段状の耕地が雪に覆われるのを、一段低くなったところから眺める。

 何度目かのトンネルを抜けると、右手にそれなりの大きさの集落が出てくる。生山で、こんどは「ゆうゆうサロン岡山」と交換。見ると、平行する川は北へ向かって流れている。分水嶺を越えたのだろう。それにしても、イベント用列車との行き違いがずいぶん多い。

 このあたりで気づいたのだが、伯備線にはホームにミラーがない。ワンマン化はされていないようだ。

 江尾では、山小屋のような真新しい駅舎があった。駅の周囲にはしっとりとした木造の風格ある建物が多く、その中でやや浮いているようにも見える。両脇に林が迫ったり、一面の雪田になったりと、なかなか変化が激しい。電車も心なしかずいぶんと速く走っているように感じる。

 片面ホームのみの寂しい駅である岸本を出てまもなく、若い車掌が検札に来る。チラリと見るだけで「ありがとうございました」と、切符を返す。経由別紙を確認しようともしない。巡回はマメにしていてよいのだが、券面をまともに見もしないで、ありがとうも何もないだろうと思う。もっとも3両とはいえ、1人乗務はつらいのだろうが。

 右から山陰本線が寄り添い、伯耆大山で合流する。長い長いホームに、「本線」の貫禄を感じる。山間部のローカル線ばかり乗り継いできたせいか、オレンジカード対応券売機や「みどりの窓口」がずいぶんまぶしく感じられる。乗客はほとんどない。山陰本線のディーゼルカーが西へと走っていったが、快速の通過だろうか。発車後はすぐに複線となり、上り列車と離合する。

 すでに外は真っ暗で、ネオンや家々の灯がまぶしい。

 米子に、18時4分に到着。鳥取県第2の都市だが、こんなに人や建物が密集していていいのだろうか、などという気になる。人の疎なる地ばかりをまわってきたため、感覚が麻痺してしまったようだ。

 駅すぐ近くのビジネスホテルのテレビは、100歳を超えていた双子の姉、成田きんさんが亡くなったことを伝えていた。都会のテレビが流す、どこかよその国のニュースのように思えてならなかった。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
182nd津山611→新見809855D
183rd新見820→倉敷933946M
184th倉敷947→福山10223725M(快速・サンライナー)
185th福山1030→府中1112539M
186th府中1209→塩町1323731D
187th塩町1429→備後落合1520358D
188th備後落合1522→備中神代1623446D
189st備中神代1627→米子1804931M
乗降駅一覧
(津山、)中国勝山[NEW]、新見、倉敷、府中[NEW]、塩町、新郷[NEW]、米子
[NEW]を付しているのは、この日にはじめて乗り降りした駅です。

2003年11月15日

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