第26日(2000年1月24日)

米子-江津-尾関山

 最長片道切符を使っての旅も、いよいよ大詰めに近づいてきた、というほどではないけれど、もう残すところ1週間もない。この先は、比較的ゆったりした旅程をたてられそうである。

 そうはいっても、列車本数が極端に少ない区間がある場合は、その区間のダイヤを軸にスケジュールを立てなくてはいけない。1日に走る列車が1本だの2本だのといった極端な場合だけでなく、乗り継ぎが悪くて実質的な本数が少ないこともある。この先では、江津から三次にいたる三江線がまさにそのパターンである。

 また冬至から1か月以上たったとはいえ、まだまだ日が落ちるのも早く、景色を眺められる時間は貴重だ。景色が見えないだけならまだいいが、暗くなったところで、民家が散在するだけで宿など見あたらない、というのでは困ってしまう。このため、適切な宿泊場所を定めておきたい。

 三江線を江津から三次へと乗るには、3つのパターンしかない。江津発6時35分、14時50分、16時26分である。しかし6時53分発では江津に泊まらないかぎり不可能だし、16時26分発では途中で真っ暗になってしまう。結局、江津14時50分発しかないのである。

 しかし、そこに行くまでのパターンはいくらでもあり、特に出雲市までの区間は列車が頻繁に走っているから、ここは適当に決めてしまえばよい。米子を朝早く出てちまちま途中下車してもよいし、ゆっくり休んでから特急列車で車窓をボーっと眺めるのも乙なものだ。米子を12時46分に発車する特急「いそかぜ」に乗れば、江津には14時47分に到着する。

 そんなことを思いつつ、今回の旅行ではおそらく唯一、目覚ましをセットしないでベッドに潜り込んだ。どんな列車に乗ることになるかは、起床時刻しだいである。

 少し疲れがたまってきたか、目が覚めると7時15分である。

 特に急ぐべきこともないので、ゆっくりと朝食を取ったうえで、駅のすぐ脇にある郵便局に立ち寄ってから、米子9時19分発の列車に乗り込んだ。キハ28+キハ58という編成である。木目調の合板を使った内装となっており、無機質だった国鉄時代に比べてはるかに暖かい感じはあるが、若かったころとは違って愛想をふりまかなくてはならなくなった、立場のズレに伴う悲哀のようなものをうかがわせる。しかし、このほかに快速の「とっとりライナー」や「いずもライナー」も停まっており、国鉄時代からのツートンカラー3編成がずらりと並ぶさまは、まことに壮観だ。

 空きボックスがいくつかある、という程度の乗りで発車する。米子市内にはけっこう雪が残っている。

「携帯電話のご利用は、ご面倒でもデッキでお願いします」

というアナウンスが流れる。そういえば、デッキ付きの普通列車に乗るのも実に久しぶりだ。

 小雨とも小雪ともつかないものがぱらついている。左手に見える丘が霞んでおり、右手も遠くに霧が立ちこめており、中海にすっぽりふたがかぶさっているようだ。数百メートル先になると、もう何も見えなくなってしまう。昨日通ってきた中国山地の中ほどに点在している盆地には、霧が発生しやすいところが多いのだが、この鳥取と島根の県境付近もそうなのだろうか。もっとも、線路沿いには赤い瓦屋根の民家がずらりと並んでおり、県境という雰囲気はまったく感じられないのだが。

 安来節で名高い安来に入ると、雪はぱったりなくなる。伯太川を渡ると農村地帯となり、悠々たる空間を、ディーゼルカーはすいすいと飛ばしていく。

 荒島で、列車交換のために3分停車する。2面3線の無人駅で、中海側にセメント工場が建っている。すれ違った列車はキハ181系在来色3連の特急「くにびき」だが、がらがらである。もっとも、終点の米子がもう目の前だし、出雲市や松江などで下車した客のほうが多いのだろう。

 荒島を出ると、国道9号線の向こう側に中海が姿を現す。もっとも、湖面こそなんとか見えるものの、水平線は霧のためにさっぱりわからない。国道の通行量はごく並だが、わが列車はそれらをどんどん追い抜いていくので、気分がよい。

 次の揖屋で、今度は特急「スーパーやくも」と行き違う。小ぶりな駅舎は変わっていないようだが、周囲では非常に大規模な造成が行われており、ショベルカーがアームを多数動かしている。この揖屋を出たあたりから、早くも築地松の家が見えてくる。

 東松江は規模の大きい貨物駅だが、旅客駅としては貧相な無人駅である。ここからは複線となる。気がつくと、空きボックスはほとんどなくなっている。

 霧はどんどん濃くなっている。中海に漁船が停まっているが、観光用と思われるボートもちらほら見受けられる。

 終点の松江には、9時54分に着いた。

 松江は高架駅である。ここからは、10時発の特急「やくも1号」、あるいは10時11分発の「出雲」で出雲市まで行くということもできるが、それなら次の快速列車に乗っても同じだ。このため、いったん外に出る。

 改札を出るときには何の反応もなかったのだが、キヨスクをのぞいてから入場しようとすると、

「すごいねー……。(下車印を)捺すところがない……」

といったきり、絶句している。こちらは苦笑するしかない。こういった曖昧な対応にも、我ながらずいぶんと慣れてしまったものだと思う。

 松江10時20分発の快速「石見ライナー」益田行きは、ディーゼルカー2連である。先頭車は各ボックスに2人以上と、まずまずの入りといえよう。

 霧のせいか、宍道湖もほとんど見えない。このまま乗っていってもよいのだが、列車を遅らせても問題ないので、尺取り虫のように、少しずつ下車していくことにする。

 玉造温泉でさっそく下車する。駅員はいたが、なぜか集札は行わなかった。

 玉造温泉は、大国主命とともに国づくりをした、少彦名命の発見と伝えられている。「出雲国風土記」にも記述があるとおり、日本最古の温泉のひとつといえる。しかし玉造温泉の温泉街は、駅から南に入ったところにあり、駅の周辺は閑散としている。目の前にある国道には、雨などものともせずに車が行き交っており、風情も何もない。

 島式ホームに戻る。やってきたキハ120に乗り込み、次の来待で降りた。

 来待は、ホームから跨線橋で駅舎へと移動するタイプの駅である。跨線橋の南側はそのまま丘の上へとつながっており、おそらくそちら側に住宅があるのだろう、駅舎を無視して歩いていく人が多い。

 駅舎は典型的な木造のものだが、瓦が赤いため、よいアクセントとなっている。かなり以前から無人化されているようで痛みも激しい。駅のすぐ脇にAコープがあるが、駅に隣接しているとみるべきか、駅舎に併設しているとみるべきか、微妙なところだ。いずれにせよ、列車の利用者は買い物ができて便利といえるのだろうが、前述のとおり、列車の利用者は駅舎側にはあまり降りていかなかったのは皮肉なものである。

 来待からは、113系湘南カラーの電車に乗る。シートにはヘッドカバーが着けられていた。

 宍道湖は相変わらず霧のために見えない。この区間は何回か乗っているものの、このように天気が悪かった経験などなく、いつもよく晴れていた。何もなければいいけれど、と思う。

 木次線との分岐駅である宍道でかなりの乗客が降り、ここから先はひたすら水田のみが広がる。築地松を持つ家が急に増え、ゆったりした空間とちっちゃくまとまった空間とのコントラストは、何度見ても楽しい。もっとも、この景観を維持するのも楽なことではないだろうから、安易に楽しむのは不謹慎なのだろうけれど。

 直江で、列車行き違いのために11分停車する。まず上り特急「やくも16号」が入る。ついで、下りの特急車両――実際にはこの時間には下り特急列車は走っていないので、おそらく車両回送だろう――が入る。そして上り「やくも16号」が発車し、そののちに下り「やくも」が出て行く。わが列車は、これらの後塵を拝することになる。

 車内で待っていても仕方がないので、ちょっと外に出てみる。無人駅だが、跨線橋の上に自動券売機が設置されていた。駅舎自体はしっかりしているが、無用の長物と化している観がある。

 築堤上を進み、家が集まると、出雲市に12時14分に到着。

 以前出雲市で下車したときは、鉄筋の地上駅舎の中に土産物屋などが入っていたものだが、すっかり生まれ変わっており、2面4線の高架ホームとなっていた。切り欠け式だった旧大社線ホームの跡など、影も形もなくなっている。

 出雲市12時39分発の浜田行き列車が入線してきたので、ひとまず車内に荷物を置いて、いったん改札を出る。ところが、ここで今回の旅の中で有数の大失敗を演じてしまった。

 ちょっとした用足しをしてから、何気なく改札上の発車案内を見ると、普通列車のことなど何も出ていない。あれれ、さっきの列車はもう出る時分だっけ、と思いながらホームに駆け上がるが、ガランとしたホームには列車の気配など何もない。何が起こったのだろうか。

 呆然としたが、じたばたしても仕方がない。冷静になって考えてみると、発車時刻を勘違いしていたに違いない。今日は、江津までの予定などまったくたてておらず、まったくの行き当たりばったりなのだから、予定表など書いていない。数字を読み違えたのかどうだかわからないが、いずれにせよ、あまり賢くない記憶に頼った自分が間抜けであることに変わりはない。

 悄然としつつ、荷物の行方が気になるので、駅事務室に申し出ると、荷物を列車から降ろし、預かってくれていたとのこと。お手数をおかけしました、と、何度も頭を下げる。顔から火が出る思いとは、こういうことを言うのだろう。長旅を続けてきて、ノウハウ面での慢心が出たのかもしれない。

 さて、この先に乗る列車には、もう選択肢はひとつしか残っていない。前述の特急「いそかぜ」で、まっすぐ江津に向かうことになる。13時41分の発車。これ以上間違えてはいけない。江津駅での接続は3分しかないが、三江線の列車が特急の遅れを無視して発車することはあり得ないだろう。江津駅近くに郵便局があることは確認済みであり、ここに立ち寄れないのは残念ではあるが、もとより自業自得である。

 ひとまず手にした缶ビールを空けてから、駅構内のそば屋に入る。出雲地方特有の割子そばで、朱塗りの鉢につゆをドクドクと注ぐ。味はまずまずだった。

 特急「いそかぜ」の自由席車は、各2列シートに1人ずつという程度の乗車である。外見はアイボリーに朱色の帯という、国鉄時代の雰囲気をよく残している。朝の急行型列車といい、この特急といい、山陰本線は古い塗色の列車を大事に使っていることが多いので、この地方にくると懐かしさを覚えることが多い。

 空はどんよりと曇っていたが、列車が走り出すのと息をあわせるかのように、だんだん明るくなっていく。

 発車後、まもなく車掌が検札に回ってきた。くだんの切符とともに、「出雲市→江津」の自由席特急券を見せる。経由別紙を見てちょっとのけぞってから、

「お疲れさまです。江津、14時47分に着きます」

という。うしろの女性には「小倉、18時42分に着きます」と言っていたから、乗客ごとに、きっぷの終点から到着時刻をたんねんに調べているようだ。こういうていねいさは、利用者にとってもありがたい。

 車内は、のんびりと寝ている人から、かなりの大きさのサブノートPCを持ち込んでカタカタたたいているひとまで、さまざまである。概して車内は非常に静かだ。

 右手に松がたくさん並び、日本海がちらりと見える。なおも雲はあるが、霧はすっかり晴れ上がっている。

 小田を過ぎてから、いよいよ本格的に日本海が横たわる。青黒い波が、やや高く揺れている。そして、松が風にゆうらゆうらと揺れる。ひたすら海と松だけが続く。何度見てもよい景色だ。実際にはたたら製鉄による表土流出に起因する風景ではあるのだが、それでも白砂青松というのは見事としかいいようがない。

 田儀で、上りの普通列車と交換する。駅舎すらない寂しい島式ホームで、かなり減速して通過していく。

 入り江ごとに波の表情が異なって見える。もちろん、根っこである日本海はみな同じなのだが、海は大地を映す鏡の役割も果たしているのだろうか。

 松の枯れたのが1本、のそっと地面から伸びている。生気がなくてひょろ長いので、寂しいというよりは、むしろ怖い。あるいは、ずんと突き出た岩に、一本松が生えている。こちらは、力強いといえなくもないけれど、むしろ孤独に見えてくる。松ひとつとっても、いろいろ感じかたが分かれるものだ、と思う。

 大田市に到着する。2面4線を持ちかなり構内は広く、地方中核駅としては典型的な駅舎をかまえている。なぜか、駅ホーム内に電話ボックスがあった。ホームに公衆電話があるのは珍しくも何ともないけれど、屋根のあるホームに、あの透明の箱が据えられているのは初めて見た。どうにも間抜けである。

 しだいに黒い雲が遠ざかり、水平線がくっきりと見えるようになる。建っている家々からは、日本的な木の質感が感じられ、非常にやさしい風景が広がる。家々の瓦もまた、だんだん立派なものになっていくように見える。このあたりが石州瓦の産地であるという、知識先行ゆえの先入観かもしれないけれど。

 江津には、定刻どおり14時47分に着いた。

 三江線の列車は、ローカル線ではすっかりおなじみとなった、キハ120系の単行ワンマン、セミクロス車であった。乗客は20人ほどと、この時間帯にしてはかなり乗っているといえる。

 すぐに山陰本線と別れ、江川を左に見る。中国太郎とも呼ばれる江川は中国地方有数の大河だが、浸食作用が非常に大きいため、河口である江津でも砂礫の堆積に乏しく、特に三次以北では平地を作ることがないため、役立たずの川と呼ばれることもあるという。

 ほどなく、高地上の集落のはずれに設けられた、江津本町に到着する。川沿いの片面ホームのみという駅だが、駅周辺には人家も多く、江津市の市街地に入っているのだろう。

 のったりとした江川の流れを見ているうちに、十分に睡眠を取っているにもかかわらず、なんだか眠たくなってくる。激しさというか厳しさとというか、この川には緊張感がどうにも感じられないのだ。

 空もだいぶん明るくなってくる。小トンネルをくぐりつつ、川に沿ってカーブを繰り返す。途中駅での乗降ともほとんどないが、男子高校生がなにやら楽しげに談笑している。

 川平駅は、跨線橋が板で塞がれていた。駅舎も古典的な改札口が赤く錆びており、使い込まれてきたと思しき施設が封印された状態で残っている。山に生えているのは、杉あり松あり竹あり広葉樹ありと、実にバラエティに富んでいるが、流れている江川の表情はまったくかわらない。

 晴れていたのに、またしだいに霧が濃くなってくる。山の斜面に立ちこめる霧は、温泉地からわき出る湯煙などとは明らかに異なる。湯煙はふわっと包み込むような感じなのだが、この霧はまとわりついて離さないような、そんなしつこさを感じる。

 川戸でいっせいに12人ほどが下車し、向かいに座っていたおばさんもここで降りていった。入れ違うようにして高校生たちが乗ってくる。無人駅だが、立派な駅舎を構えており、かつては有人駅だったとうかがえる。列車交換も一見可能そうだが、対向ホームにはワンマン運転用のバックミラーがないうえ、三次側のレールは切られている、この駅止まりの列車はないから、まったく使われていないのだろう。三江線は1930年4月2日に第一期開業を果たしているが、その区間は、江津からこの川戸までであった。

 霧の中へ突入するかのように、ディーゼルカーは進んでいく。乗っているのは高校生と老人ばかりという、ローカル線の典型パターンになってしまう。山からわき水があるところには水田がちらほらあるが、目の前にたっぷりと水が流れているのを、指をくわえて見守らなくてはいけないのだから、役立たず呼ばわりされるのも仕方ないかもしれない。目に入るのは、川と木と山のみとなってくる。

 まとまった集落が見え、左へぐいっとカーブしすると、因原に到着した。乗降とも2人ずつである。もとは交換可能駅だったが、現在は本屋側のみが使われており、木造の駅舎には人の気配がない。川の対岸に集落が見える。

 三江線の拠点である、石見川本もワンマン扱いである。ここで車内の乗客の大半が下車し、かわって詰め襟の男子高校生、コートにマフラーの女子高校生が大挙して乗ってくる。駅前からは、JRバスが発車していった。複雑な構内配線はほぼそのまま現役で使われているが、以前は跨線橋などなく、構内踏切で直接ホームに出入りしたような記憶があるのだが、と思う。いずれにせよ、しっかりした駅前広場を持つ、ここまででは初めての駅である。集改札はやっていないようだが、駅には職員がおり、それだけでこれまでの駅とは格が違うように感じる。町役場だろうか、高層の建造物が見え、これがずいぶんと目立つ。

 ガラス窓がだんだん曇ってきて、江川にへばりつくように走っていく。乙原(おんばら)、石見柳瀬と、駅ごとにぼつぼつと降りていく。このあたりになると勾配もかなり急で、タフなキハ120といえども、けっこう苦労しているようだ。

 さきほどまでは茶色であった江川の流れは、いつの間にか緑色に見えるようになった。周囲を気にせず、マイペースで流れているという感じは相変わらずである。

 急カーブが続く。江川の流れに忠実に沿ってレールが敷設されているため、スピードがなかなか出ない。しかも、眼下に青いビニールシートがある。崩れたのだろう。

 いったん川が離れ、水田のある集落を淡々と進むと、粕淵である。邑智町の中心駅で、ここで高校生がかなり下車し、かわっておばさんや女子高校生が乗り込む。駅舎は、なにやら公共建造物に間借りしているという風情。

 発車後、すぐにトンネルをくぐる。どっしりした駅舎のある浜原で行き違いを行う。ここで2人ほど降り、6人が乗る。意外と需要があるものだが、通学時間帯でこの程度、ともいえる。

 ここから先の口羽までの区間は、日本鉄道建設公団によって建設され1975年に開業した区間で、高架やPC枕木などを使った近代的な路線である。そのせいか、列車は急にスピードをあげ、長大トンネルを抜ける。集落が現れると、沢谷に着く。片面ホームのみ、コンクリート造りという何ともそっけない駅で、鉄建公団線特有の寂しさがある。この先も、トンネルと高架橋が続き、駅はみんなコンクリ尽くしとなる。

 女子高生がきゃーきゃーとにぎやかだ。ところどころに立派な橋がかかっているが、川幅は中流とはいえずいぶん広く、往来はしにくいだろう。

 トンネルを出て急に視界が開けると、真っ赤な太陽が、のんびりした風景をあざ笑うかのように照りつける。

 駅ごとに乗客は減っていき、やたらと高いところにある宇都井駅で、とうとう女子高生2人と私だけになってしまう。水田の上、約30メートルの高架橋の途中に設けられたホームにたどり着くには、地上からは116段もの階段をのぼっていく必要がある。バリアフリーなどという概念の存在しなかった時代の構造物だけに、エレベータなどあるはずもない。現在では、その存在そのものが否定されかねない駅なのだが、けっこう下車客はいた。この人たちは、乗るときにあの階段をえっちらおっちら毎日上っているのだろうか。

 側線が現れ、交換設備が目に入ると、口羽に到着。島式ホームで、粗末ながらも簡素な駅舎があった。鉄建公団区間はここまでである。

 江川の表情はまったく変わらないが、流路がやや直線に近くなると、線路もそれに従うことになる。鉄建公団区間では、知ったことか、と言わんばかりにトンネルと高架橋でのショートカットを繰り返していたのだから、まるで別の路線に入ってしまったようにさえ感じられる。畑地には雪がパラパラと散らばっている。

 江平(ごうびら)は、小さな集落の脇にとりあえず作られただけという感じの、粗末な作りの駅であった。棚田が広がっている。

 なぜ集落の多い方に線路が敷かれないのか、と思うことがこの三江線では多い。作木口はそんなことを思わせる区間にある駅である。鉄柵で覆われたところがホームというに過ぎない簡素な駅で、対岸へと赤い橋が通じている。もっとも、谷の間に川があるわけだが、肝心の江川がのべーっとしているため、どうにも迫力に欠ける。

 江川を斜めに渡り、香淀に到着する。ここも例によって1面1線の無人駅だが、ウッディ調の八角形待合室が目を引いた。ここも対岸へと橋がかかっているが、乗降ともゼロ。竹林が多い。

 信木、所木と、寂しい駅に1つずつ停まりながら、列車は淡々と進んでいく。

 トンネルを抜けて、尾関山に到着する。今日はここで降りて宿に泊まり、明日はこの尾関山から「最長片道切符の旅」を続ける予定である。

 ワンマン運転士にくだんの切符を見せる。

「ひゃーすごいね…。こりゃ……どこ行くん……」

「いつから……へー1年かかって……あ、いやいや、2か月か」

「いくら……はー、7万……」

「気ぃつけていきなよ」

 客に対するというよりは、なじみの人に対するような口調ではあるが、愛想は非常によい。待合室の前には広大な駅前広場があるものの、その実は単なる荒れ地が広がっている以外の何ものでもない。

 ここから、常宿としているユースホステルへと向かう。これまで泊まったときと同様に、宿泊客は私1人であったが。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
190th米子919→松江959129D
191st松江1020→玉造温泉10313455D(快速・石見ライナー)
192nd玉造温泉1054→来待1101549D
193rd来待1134→出雲市1214283M
194th出雲市1341→江津144729D(特急・いそかぜ)
195th江津1450→尾関山1731451D
乗降駅一覧
(米子、)松江、玉造温泉、来待[NEW]、荘原[NEW]、出雲市、尾関山
[NEW]を付しているのは、この日にはじめて乗り降りした駅です。
訪問郵便局一覧
米子郵便局、松江中央郵便局、来待郵便局、出雲郵便局

2003年11月24日

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