第28日(2000年1月26日)

津和野-益田-長門市-厚狭-下関-門司-小倉-博多-原田-桂川-吉塚-折尾-新飯塚

 ローカル線の一番列車は遅い。津和野を出るのは6時51分発であり、駅は宿から歩いて2分とかからないから、早起きが常態化している今回の旅のなかでは、比較的ゆっくりと起き出すことができる。

 もぞもぞと布団の中で身をよじる。しんとした冷え込みが、体に伝わってくる。年季の入った木造旅館であり、部屋がすっかり冷え込んでいるということもあるのだが、なぜだか形容しがたい安心感のようなものがあり、ふっと体全体を包み込んでくれるように思える。自宅では洋間にベッドで寝ているのだが、旅先、特に長旅の際には、こういう旅館のほうがゆったりできるようだ。

 のそのそと起き出して窓の外を見ると、地面が真っ白。かなり雪が積もっているようだ。昨日は雨のせいで地面が濡れてはいたものの、雪などひとかけらもなかったので、まったく意外だった。宿の女将さんが、今朝がた扉を開けたときにはまだ降ってなかったんですけどねえ、と語る。

 時間的には急ぐ必要などまったくないのだけれど、傘をさしたくないがために、駅までダッシュをかける。しかし、日本海の湿気をたっぷり含んだベタ雪を甘く見ていたようで、カメラバッグに雪がこびりつき、手で払っただけでは落ちず、ていねいにふき取らないといけない。駅改札前で、雪の処理に難渋する羽目になった。

 津和野6時51分発の列車は、キハ58+キハ28のツーマン運転であった。雪はかなり強く、真冬の西日本であるから外はまだ真っ暗である。各ボックスに1~2人程度だが、空きボックスもあり、乗っているのは例によって高校生ばかりである。

 川沿いに土地が開けると水田が広がるが、一面の銀世界になっていることには変わりない。おそらく昨日は雪などほとんどなかったと思われるのだが、天気の変化の速さには驚くばかりだ。

 日原で行き違いを行う。無人の真新しい待合室が立っている。相当多くの高校生が乗り込み、車内はいっそうにぎやかになる。この日原から、岩国方面へと向かう新線が建設されていたが、国鉄末期に建設が中断され、そのまま日の目を見ることはなかった。しかしここから山陽方面へとショートカットしたところで、中途は山岳地帯ばかりだし、鉄道で輸送を行うほどの需要があったとはとうてい思えず、よく着工したものだ、と改めて思う。

 窓枠がかなりガタついており、特にトンネルに入ると、すきま風が気になる。アユで有名な高津川を渡るが、河原は真っ白だ。

 後ろの席の茶髪の生徒が、ヘッドフォンステレオのシャカシャカ音をまき散らしており、うるさい。席もかなり埋まっているので、いまさら移ることもできない。高校生は駅ごとに乗ってくるが、デッキに固まっているようだ。2年生が受験体勢に入るシーズンなのだろう、いろいろな教科についてあれこれ話している。

 石見横田で交換する。相手は単行のワンマンで、乗客はさほど乗っていない。窓ガラスがぼわっと曇り、反対側の風景はほとんどわからなくなる。駅は製材所に隣接している。

 益田には、定刻から1分遅れの7時32分に着いた。益田には、高津柿本神社や雪舟庭園など多くの見どころがあり、ゆっくり散策したい町だが、今回は単なる乗り継ぎとせざるをえない。

 思った以上に雪の影響は大きいようで、7時57分発の山陰本線の列車は、大幅に遅れて発車した。キハ47ワンマン単行でトイレ付き車両に、乗客はわずか6人である。

 日本海はかすんでいるがかなり荒れており、白波がざんざんと踊る。防波堤に当たって大暴れしている波は、怪獣が太い腕をがつんがつんとぶつけているように見える。砂浜にも雪が積もっている。一昨日の日本海はどこに行ったのだろうか。白砂青松などという生やさしいものではない。とって食うぞといわんばかりの動きだ。

 運転士以外の乗務員はおらずワンマン運転のようだが、ダイヤだけでなくテープの具合まで悪いのか、運転士がマイクで駅名を告げていく。

 原型を残しながらリニューアルされた駅舎を構える戸田小浜で、はや2人が下車する。雪はますますひどくなる。

 集落を上から見下ろす格好になり、落葉樹が車体をたたく。海だけでなく、吹雪のために視界がひどく悪くなってきた。一昨日は霧が濃かったが、雪がここまで激しくなると、底から響いてくるような迫力がある。

 飯浦では、1人が乗って1人が降りる。風は収まるが雪はかえって強まったようで、もう葉っぱを完全に落とした枝から雪が列車を直撃し、どかっ、という衝撃が伝わってくる。平行道路に、ナントカの直売所というスタンドを見かけるが、いったい何を売っているのだろう。

 交換可能な江崎で、数人が乗りこんでくる。高校生、おばさん、背広を着たビジネスマン、かつぎ屋のおばさんと、客層はまちまちだ。ここでも、落ちる雪が列車の屋根と窓ガラスをガタガタ、バリバリとたたく。

 平行道路の自動車は、おそるおそるという感じで、ゆっくりと走っている。もともと「雪国」というわけではなく、ドライバーもこれほどの雪には慣れていないのだろう。車内の高校生が言っているとおり、これは場所に似合わぬ「大雪」なのだ。

 こういう中に長いこといると、焦りも何もなくなる。こんな雪の中を平然と走っていると、それだけでも一種のすがすがしさを感じる。暖房の効いたディーゼルカーの中ゆえ気楽という面もあるのだが、日常から隔絶された空間で、自分がどこにいるのかさえも感じる必要がなく、一種の浮揚感のようなものにゆったりと身をたゆたえていくような心地よさを覚える。

 やっと雪がおとなしくなってくると、海の緑色が網膜に伝わる。もっとも、枝々が支えている白い塊は相変わらずで、ときどき列車に妙な音や震動をもたらしたりするし、合間に見える日本海は、相変わらず禍々しい。

 平行道路の積雪もどんどん減っていき、車はごくふつうのスピードで走っていく。その車を、わがディーゼルカーが追い越していく。少しずつではあるが、空は明るくなっていく。

 木与は、人の顔をかたどったような待合室が楽しい。交換可能だがほとんど使われていないようで、ワンマン用ミラーもない。

 久々に田園の中の駅となるのが、長門大井駅で、木造駅舎を構えている。口々に「滑る…」といいながら、おばさんが2人乗ってくる。

 風穴で名高い笠山へと連なる陸繋砂州の入り口に位置する越ヶ浜には、まとまった集落があり立派なホテルもあるが、屋根付きの囲いがあるだけの一面一線の無人駅である。アプローチは狭い路地、民家の隙間にある階段を上ってホームへとたどり着く構造で、明らかに観光には不向きだ。

 東萩では、本屋前ホームに入線する。萩市の玄関口だけあって、ここで車内の乗客の大部分が入れ替わる。ATSが「チンコンチンコン」とにぎやかに鳴るが、列車の交換はない。萩の町は、橋本川と松本川に囲まれ、地図で見ると島の中にできているように感じられる。東萩駅は、その島の東側の入り口付近にある。山陰本線はこの川の外側をぐるりと回るように走っているため、列車は市街地には入らない。

 工場や住宅にはさまれつつ右へとカーブし、川を渡り、萩の島の姿が見えると、再び右へカーブし、萩に到着する。現在も交換可能で、ホームも割と広い。下車はなく、かなりの乗客があり、白を基調とした木造駅舎で、木の部分は薄い青緑色に塗られているものの、木のラッチなど、昔懐かしい部分はそのままとなっている。一度降りてみたい駅である。

 再び川が見え、対岸に萩の町並みが見えると、急坂と急カーブが続き、萩城のある山が見えてくる。続いて玉江に停まる。駅舎は赤いスレート葺きの平凡なものだが、木の待合いスペースに風格を感じる。民家の真ん中にあるような風情だが、萩城址にはこの駅から行くのが近い。

 ここから上り坂となり、雪は完全に消え、屋根にも白いものはまったく見あたらない。黄色い実をつけた柑橘類の樹木がたくさん見える。

 再び日本海が見え、砂浜、松、まさに白砂青松となる。そして波が岩を洗う。風に吹かれる松が枝をカッと天に伸ばし、荒れ気味の海に対して我を張っているように見える。赤い瓦屋根が再び見え始め、薄日が差してくる。雪のあるなしだけで景色はこうも変わるのか、と思う。地元のおばちゃんが、

「このへんは雪ないんだねー、玉江が境だね」

と話す。砂浜には2~3メートルの大ススキが揺れ、岩の上には松が屹立する。

 平地に出ると、あとは淡々とした風景の中を進む。

 長門市には、9時55分に着いた。遅れは6分である。

 長門市から乗り継ぐ列車は、10時2分発の美祢線列車で、接続は非常によい。ここまで接続がよいと、途中下車をして駅を眺めるといったことができないのが残念だが、美祢線のようなローカル線では1本逃すとあとが大変になる。キハ120系のオールロングシート車で、ワンマン扱いだが、運転士のほかに車掌が乗り込み、車内で切符を売っている。乗客は12人であった。

 美祢線は、普通列車のみが12往復するだけの典型的なローカル線である。JRの路線区分では「地方交通線」ではなく「幹線」に分類されているが、これは美祢や重安から搬出されていた大量の石灰石輸送によるものであった。貨物輸送の実績で幹線に区分された路線には、美祢線の“相棒”といえる宇部線のほか、北海道の夕張線(のちの石勝線)などがある。

 幹線/地方交通線という区分がなされた当時、美祢駅の貨物発着トン数は全国1位または2位で、積み出し駅であった宇部港とトップを争っていた。今では想像もつかないが、何十両という貨車を牽引した機関車との行き違いを行うときなど、ディーゼルカーはむしろ肩身の狭いような立場だったという。

 その石灰石輸送も、宇部興産専用道路の完成なども相まってどんどん減少し、現在では重安発着のわずか1日1往復にまで落ち込んでしまった。現在の美祢線はどこからどう見てもローカル線であり、陰陽連絡線の中でもかなり地味な部類に入る。第一級の観光地である秋吉台・秋芳洞への玄関口である美祢を通過しているとはいっても、観光客が美祢でわざわざ路線バスに乗り換えるというケースはあまり考えられないだろう。これから乗っていくのは、そういう路線である。

 山陰本線と分かれ、右手前方に見える山がすっかり白く雪をかぶっている。しかしここ長門市では、低地にはすでに雪はまったく見えない。しだいに日が出てくる。正面に座るおばあさんは、なぜか正座して缶コーヒーを飲んでいる。

 長門湯本は、交換設備が撤去され、ひなびた駅舎がそのまま残る無人駅である。「祝・新幹線厚狭駅開業」の看板が掲げられているが、うらぶれた雰囲気しかない。長門湯本温泉は山口県内有数の規模の温泉だが、観光客と縁のある駅には見えそうにない。左手には温泉旅館の大きなビルが建ち並んでいる。

 文字通りの渋い木造の駅舎を持つ渋木で、行き違いを行う。ここはけっこう雪があり、駅舎の屋根も白い。日が出ているので、軒からぽたぽたと滴が落ちてくる。

 渋木を出ると、右へ大きくカーブを描く。周囲が雪に包まれるようになり、トンネルを抜けると積雪はさらに増える。雪を照らす太陽がまぶしい。なだらかな田園風景となり、ゆるい下りを進む。於福を出て、坂を下っていくと、雪がだんだん減っていく。

 重安は、広い構内に巨大な石灰石の積み出し設備を備えているが、動いている気配はない。駅舎はむしろ小さくて貧弱だ。左手には三菱樹脂の工場が見える。広大な側線が広がっているものの、トロッコ1台すら停まっておらず、寂しいかぎりだ。

 重安からの側線はしばらく続くが、これが途切れると、ほどなく美祢に到着する。人口がとうとう2万人を切ってしまった美祢市だが、それでも美祢線の中では最大の旅客駅であり、みどりの窓口も設置されている有人駅である。ここでかなりの数の乗客が入れ替わる。地面がちらほらとまだら模様に白くなっている。

 右へ左へとカーブを繰り返すと、ほどなく南大嶺に到着する。以前はここから大嶺へと、大嶺炭田に向けた枝線がひと駅ぶん延びていたが、1997年3月末かぎりで廃止された。大嶺炭田の閉山は1970年のことだから、よく生きながらえた、というべきだろう。その大嶺支線が分岐していた敷地が、なんだか不気味に草むしている。鉄筋コンクリート造の味気ない駅舎が、ぽっかりと口を開けている。

 左側に、おそらく石灰岩から成っていると思われる、白い山がいくつも見える。真っ赤に錆び付いてボロボロになった積み出し設備の痕跡が、放置されるがままになっている。

 民宿のような四郎ヶ原、民家のような厚保など、小駅にひとつひとつ停まっていく。美祢線は重安から厚狭まですべての駅が交換可能駅となっているのだが、実際には一本の貨物列車ともすれ違っていない。これが“幹線”美祢線の実態である。

 ほどなく、朽ち果てたホームが見え、以前は交換可能であったと思われるスペースがある。廃止になった駅か信号場の跡地だろう。以前はこのような設備まで設け、こまめに行き違っていたのだ。

 終点の厚狭には、11時2分に到着した。なんと、駅本屋前に堂々と入線していく。時間が止まったかのようなローカル線を走り抜けてきたキハ120系にしては、ずいぶんと態度がでかいものではあるが、あるいは美祢線に対するせめてもの敬意の表れなのだろうか。

 厚狭からは山陽本線となり、まっすぐ九州へと向かうことになる。11時20分発の4両編成の電車に乗り込む。

 新幹線の高架が左へと分かれ、その下をこんどはアンダークロスする。雑木林の中を進む。

 ちらちらと小雪が舞う中、築堤上なのか高台にあるのか判然としないが、植生に着く。ここで降りる人がけっこう多い。次の小月では、三々五々乗り込んできた女子高校生が「あーさっむいわー」と口にしている。温暖なこの地方では、雪が降っているだけで十分に“寒い”だろう。

 ここで検札がくる。例の切符を手にした車掌、ちょっとのけぞるが、

「稚内から肥前山口ですか。はい、ありがとうございました」

経路をサッと見るだけで、すぐに返す。

 左右には田畑が広がるが、雪が流れているため視界は悪い。もちろん午前中に見てきた日本海側のそれとは雲泥の差があるし、積雪そのものはほとんどないのだが、天気予報は見ていなかったし、この先どうなることやら、気にかかる。

 史跡が多く残る長府に着くと、窓の真正面に、うどん・そば屋が見える。そういえば、今日はまだ何も食べていない。思わず喉が鳴るが、ここは我慢する。駅の近くには高層マンションがずいぶん多い。左手に港湾施設や工場、アパートなどが見えてくる。

 新下関では新幹線と直交するが、なんとも中途半端なロケーションだ。それでもさすがは新幹線、ここでかなりの乗客があり、一気に空席が消える。接続している下り新幹線列車があったのだろう。この駅で「下関-小郡」という方向板をつけた、山口線色ディーゼルカー4連とすれ違う。間合い運用に入っているのだろうが、普通列車のディーゼルカー4連などという“豪華編成”にはなかなかお目にかかれないものだ。

 山陰本線が合流する幡生には、ディーゼルカーが何編成か停まっていた。乗降ともさほど多くない。「下関地域鉄道部下関車両センター」とあった。

 ここからはのんびりと進み、終点の下関には11時52分に着いた。

 下関でいったん下車して簡単な食事を取りながら、郵便局に設置されているインターネット端末から、ISPのアクセスポイントをプリントアウトする。

 下関からはJR九州の領域となる。いよいよ最終段階である。

 12時35分発の列車に乗ると、関門トンネルをあっさりと抜けて、いったい何本あるのかわからないほどたくさんレールが分かれている中を進む。非常に大きいものの、ここ数十年来ほとんど変化のなさそうな門司を抜けて、小倉には12時48分に到着した。

 小倉から先のルートは少しく複雑で、小倉-(山陽新幹線)-博多-(鹿児島本線)-原田-(筑豊本線)-桂川-(篠栗線)-吉塚-(鹿児島本線)-折尾-(筑豊本線)-新飯塚となる。ここでは、いわば「北九州問題」ともいうべき、切符の経路指定上重要な問題が避けて通れない。この問題に対してどのような結論を出すかによって、最長片道のルートが大きく変わってくるのである。以下、かなり理屈っぽい話になってしまうが、ご容赦いただきたい。

 国鉄は、新幹線を「在来線に設けた複線」と位置づけていた。つまり、従来の東海道本線や山陽本線、東北本線などとは大きく離れた場所を新幹線が通ることになっても、それらはあくまでもオリジナルの路線と同一という建前なのである。このため、乗車券の経路としては、東海道・山陽・東北・上越の各新幹線は、原則として在来線と同じ路線として扱うことになっている。

 これは、新幹線と在来線とで運営する会社が異なる場合も同様だ。このため、米原から新大阪まで有効な乗車券を持っていれば、JR東海が運営する東海道新幹線、JR西日本が運営する東海道本線(在来線)のどちらでも乗れる。券売機などで在来線の切符を購入してから、気がかわって新幹線の特急券だけ買えばそのまま新幹線に乗れるし、逆に東海道新幹線の切符で在来線に乗り、特急券だけあとで払い戻すこともできる。

 ただし、新幹線側に在来線とは別の駅が設けられている場合には、一定の条件付きではあるが、その前後の区間は独立したものとして扱うことになっている。例えば、新神戸という駅は新幹線だけにあり、在来線の東海道本線には存在しない。この場合は、新大阪-新神戸-西明石という区間は、在来線とは別に“認知”されるのだ。すなわち、別ルートとされるために、…-新大阪-新神戸-西明石-尼崎-…といったルートが、経路を重複せずに1本の片道乗車券として認められるのである。福山-新尾道-三原、三原-東広島-広島、広島-新岩国-徳山の場合も同様だ。

 しかし、小倉-博多は、ちょっと話が異なる。この区間は、新幹線がJR西日本、在来線がJR九州の経営だが、中間駅はない。このため従来は、上述の米原-新大阪と同様、同一の区間と見なされてきた。ところが、JR九州が運賃を値上げした結果、在来線と新幹線とでは運賃が異なるようになり、切符を発行する際には経路を指定する必要が出てきたのである。

 乗車券を発行する際に経路を指定するということは、個別の経路として認められていることだと考えるのが自然だろう。ところが、JRの運送約款である「旅客営業規則」の第16条の2、第2項には、「新大阪・西明石間」「福山・三原間」「三原・広島間」「広島・徳山間」は明記されているものの、「小倉・博多間」は書かれていない。それどころか、同第16条の3で、この区間は同一の線路として扱う旨が明記されている。

 その一方で、同第68条4項3号には、このような記述がある。

新下関・博多間の新幹線の一部又は全部と同区間の山陽本線及び鹿児島本線の一部又は全部とを相互に直接乗り継ぐ場合は、次により計算する。

ア 山陽本線中新下関・門司間及び鹿児島本線中門司・小倉間の一部又は全部(同区間と同区間以外の区間をまたがる場合を含む。)と山陽本線(新幹線)中新下関・小倉間(同区間と同区間以外の区間をまたがる場合を含む。)とを新下関又は小倉で相互に直接乗り継ぐ場合は、新下関又は小倉で鉄道の営業キロ又は運賃計算キロを打ち切つて計算する。

イ 鹿児島本線中小倉・博多間の一部又は全部(同区間と同区間以外の区間をまたがる場合を含む。)と鹿児島本線(新幹線)とを小倉又は博多で相互に直接乗り継ぐ場合は、小倉又は博多で鉄道の営業キロ又は運賃計算キロを打ち切つて計算する。

 この「ア」は、例えば新下関-(新幹線)-小倉-(在来線)-門司というルートの場合は、小倉で営業キロを打ち切るため、そこから先の片道乗車券を発行することはできません、ということである。ずいぶんともってまわった表現であるが、事実上折り返しになる場合を厳格に示すためにこうなったのだろう。まさか条文中に「事実上折り返すような経路の場合には」云々と書くわけにはいかない、というのはわかる。これを逆に考えれば、当然ながら、新下関-(新幹線)-小倉-(在来線)-折尾というルートは認められるわけである。一方「イ」も同様に、折尾-(在来線)-博多-(新幹線)-小倉という場合は、博多でいったん打ち切ります、ということだ。熊本-(在来線)-博多-(新幹線)-小倉ならば問題ない。

 ところが、これらは小倉または博多で折り返す場合には経路打ち切りになる(それから先の片道乗車券にはならない)と明記しているものの、これ以外の場合に関する規定がない。すなわち、新幹線で小倉から博多まで乗り、博多駅で折り返さずに鹿児島本線をいったん南下し、別のルートから再び鹿児島本線の小倉-博多間に合流することができるかどうか、という問題が出てくる。具体的には、小倉-(新幹線)-博多-(鹿児島本線)-原田-(筑豊本線)-桂川-(篠栗線)-吉塚-(鹿児島本線)-折尾というルートは、吉塚で打ちきりになるのか否か。

 単純に考えるならば、前述の第16条の3をもって、同一の線区であるから認められない、で済むはずだ。しかし、第68条4項3号で、わざわざ「直接乗り継ぐ場合」のみ打ち切り計算の旨を明記しているために、話がややこしくなる。わざわざ「打ち切り計算をする場合」を明示しているから、「それ以外の場合は通算できる」のか、「条文の内容は復乗不可を明らかにしているから通算できない」のか。

 どちらとも解釈できそうだが、通算可能という解釈もあながち無理ではない。なぜなら、第16条の3を直接適用できると考えれば、第68条4項3号が存在する意味は最初からなくなってしまうのであって、空文化しているわけでもない規定がわざわざ設けられたという事実を考えれば、第16条の3は限定的に解釈するのが妥当と判断できるからである。この解釈をとった場合、最長片道切符のルートはより長くなるので、今回はこのルートで進むことにした。規則の裏、というより欠陥をつくようなものではあるが、一般に公開されている運送約款を、利用者本位に運用するとこうなる、ということにしておこう。

 実際には、発券の際にひと悶着あったのだが、これはある程度覚悟していたことだし、最終的にはこちらの意見が通ったので、ひとまずよしとしておく。

 小倉でいったん下車し、駅前の郵便局に立ち寄る。以前は北九州中央郵便局だったはずだが、いつの間にか局名が変更になっていた。

 JR九州に特徴的な、元気いっぱいといった感じのコンコースを抜けて、北側の新幹線乗り場に行くと、いかにも別の駅ですとアピールするかのようだ。よくいえばクールで落ち着いた感じである。

 小倉13時27分発の「こだま」に乗り込む。小倉-博多を新幹線で移動すると、たったの20分である。在来線の特急であれば、早くても40分はかかるので、さすがに強い。しかし、新幹線の特急料金は940円、在来線なら500円である。

 この区間はトンネルでショートカットすることが多いため、あまり景色はよくない。それでも遠賀川の手前で、うっすらと雪が積もっているのが見えた。

 博多には13時47分に着いた。博多ではJR西日本の改札で下車し、JR九州の改札から入場すると、このときに下車印を捺される。JR九州改札では、自動改札機が稼働中だった。

 博多13時58分発の列車に乗る。今日のスケジュールでは、原田(はるだ)15時50分発の筑豊本線が軸となるが、それまではどう進んでもかまわないので、ひとまず南福岡でいったん下車する。駅はビルの中にすっぽり入っており、周囲には高層マンションが建ち並ぶが、少し奥に入ると昔ながらの商店街が健在だ。西鉄の雑餉隈(ざっしょのくま)駅まで歩き、再び引き返す。

 続いて、鹿児島本線の電車に乗る。朱色に柱が塗られた二日市駅はずいぶん派手なものだが、やや朱がくすんできている気がする。ここでまとまった人数が下車。車掌の制服が独特だが、パリのメトロから参考にしたものであろうか。

 原田には、14時47分に着いた。

 原田には、以前にも降りたことがある。やはり筑豊本線に乗り継ぐときに下車したのだが、そのときは地方の小駅であり、小ぶりな木造駅舎とわずかな商店、あまり人気のない集落という程度の印象しかなかった。

 ところが、改札を出て驚いた。ものすごい変貌ぶりである。どんどん開発が進んでおり、東急資本による大規模な造成が行われていた。スーパーマーケットが建っているほか、発掘調査も行われている。太宰府政庁が近く、邪馬台国の有力候補地もさほど遠くないだけに、掘れば何かでてきそうではあるが。

 原田から出る筑豊本線は、どこから見ても「本線」と呼べるシロモノではない。原田駅の切り欠け式ホームの片隅に、黄色いキハ125系が、ちょこんと1両ポッキリで停まっている。原田から桂川(けいせん)までは1日わずか7往復。もとは運炭線として活躍したであろう区間だが、博多に背を向けているこの区間は、すっかり見放されたような格好になっている。それでも8人の乗客がおり、いちおう格好はついている。

 原田を出ると、笹藪の中をすいすいと降りていく。西鉄をオーバークロスする。このあたりはずいぶんと人口も多い。築堤の上をひたすら進むが、電化されて列車が頻繁に走っていたら、まちがいなく新駅がこのあたりにできていただろう、と思う。こんな区間を電化することなど、まず考えられない話ではあるが

 筑前山家は、ずいぶんと年季の入った木造駅舎であった。電照式の行灯型国鉄式駅名標も健在で、二十年くらい前にさかのぼったような気がする。対向式ホームだが、反対側のホームはススキにすっかり覆われていた。

 しばらく進むと田畑、そして再び笹藪となり、上り坂にさしかかる。

 すこしうとうとする。山間部に入ったのか、横殴りの雪がたたきつけるように降る。

 筑前内野駅は、ごく小さなログハウス調の駅舎を構えていた。交換設備は現役だが、現状の列車本数では、あまり意味がないような気もする。

 上穂波は、別の建物の中を通ってホームへ出る構造になっている。この駅でも、国鉄型の駅名標が残っていた。

 ゆっくりと民家の中を縫うようにカーブし、下り坂を走る。変電所、ついで架線が見えてくると、桂川に着いた。なんだか九州北部の裏手を、人に見つかってはいけないとばかりに、福岡市内を避けて潜行したような気がした。ホームには雪が吹き付けていた。

 桂川16時26分発の列車は、キハ66+67という組み合わせのワンマン列車だった。国鉄末期、それまで筑豊地区に走っていた古い客車やディーゼルカーを置き換えるために、転換クロスシートを備えたこの形式が投入されて注目されたが、実際には運用上あまり使い勝手がよいものではなかったようで、どことなく中途半端な存在になってしまったようだ。それでも、往事には「筑豊のプリンス」と呼ばれた毛並みのよさが感じられるが、この車両がワンマン化改造されているのを見ると、ちょっと寂しくなる。

 博多に向かう便ということもあって、座席の半分程度が埋まる。3分の2が高校生だが、珍しいことに、にぎやかなのは高校生の中でもごく一部だ。「雪、積もるよ、積もるよ」と楽しそう。

 高架上を、雪に逆らうかのように高いアイドリング音を立てて登る。九郎原駅は片面ホームのみで、土手の上のようなところにあり、国鉄型の鳥居型駅名標が健在だ。無人駅としか見えないが、「整理券をお取りください」というアナウンスがない。駅舎の工事が行われており、ほどなく改築されるのだろう。

 篠栗トンネルを出ると、竹林の脇にある城戸に到着する。ホームはやや高いところにあり、地下道で駅本屋へと降りる方式だ。ホーム屋根は木の柱で支えられており、なかなか重厚な感じである。

 トンネルを越え、さらに高架が続く。左下には4車線の国道201号線が通っている。この国道を越えると、いっきに人家が増える。いつしか雪はやんでいるが、空がどんよりと暗いことに変わりはない。キハ66+67の青いシートは、製造当時のメジャーデザインに即したカラーなのだが、外が少しずつ暗くなってくるので、なお侘びしい。

 篠栗で大量の乗車があり、ここで全席が埋まる。再び雪が降ってくる。駅員はモスグリーンのジャケットを羽織っている。対向列車は、「赤い快速」4連。あのような新型車両が相手では、このキハ66+67はやはりつらい。

 左に工場、右に民家という風景の中を進む。片面ホームの長者原では乗降ともに多い。香椎線の表情もかなり変わっているのだろう。ここから、おそらく将来の複線化用地と思われる土地が目にはいる。

 原町で交換する。駅前には自転車駐輪場がびっしり。ここもスマートな駅舎になっている。やや高いところを走るため、左右に市街地が一望できる。左手に離陸していく飛行機が見える。

 柚子は、工場や民家が雑然と集まっているところにある。ホームの狭い駅。ホームには高校生が鈴なりである。風がかなり強いようで、竹がわっさわっさと揺れている。

 吉塚には17時9分に着いた。

 吉塚駅は、大規模な工事の真っ最中だった。篠栗線ホームから鹿児島線上りホームへは、歩いて4分ぐらいかかる。両ホームとも仮設だが、工事の終了後は相当大規模な駅になるのだろう。

 ここから乗った快速は当然のように通路までいっぱいだが、夕方ラッシュ時の博多発方向としては空いていると思う。混んでいた車内は、香椎でずいぶんと空いたが、香椎線への乗り換えが多いのだろう。ここからドア脇に立ち、流れる景色を目におさめる。場所が場所だけに、真っ赤なドアが非常にインパクトあるものとして迫ってくる。

 赤間で普通列車に接続する。入れ替え客はかなりあるが、トータルで見ると降りる方が若干多いようだ。このあたりでだいぶん暗くなってくる。

 無骨な鉄橋で遠賀川を渡り、折尾には17時57分に着いた。高架上のホームで、ここから筑豊本線に乗り換える。

 筑豊本線のホームは鹿児島本線ホームの下にあるので、階段を下りる。接続はよく、折尾18時発の3連に乗り込む。

 車内の半分近くは例によって高校生で、各ボックスに2~3人程度の乗車率である。さすがに外はもう真っ暗で、照明がないと何も見えない。

 中間で高校生の相当数が降り、車内の立ち客はほとんどいなくなる。筑前垣生でもそこそこの下車があった。いずれも有人駅もしくは委託駅で、筑前垣生では、小振りの駅舎の脇に立つ樹にイルミネーションが飾られていた。

 鞍手は片面のみの駅だが、それでもけっこう降りる。もともとこの区間は確か複線だったはずだが、と思う。暗い中で、見間違いをしているかもしれない。そろそろ視覚さえも怪しくなってきた。

 筑前植木は、純和風のオーソドックスな駅舎であり、木と瓦屋根とのバランスが何ともいえずよい。古いものを大切に使っているのか、古めかしい作りなのか、単に古いまま放置されているだけなのか、暗いのでよくわからないが。

 再び遠賀川を渡る。ごく少ない乗客を乗せた列車は、直方に18時24分に着いた。

 夕暮れどきの直方駅は、ひっそりとしている。通勤通学客でごった替えしているかと思いきや、この時間帯は北九州方面からの客が帰宅するには早すぎるのだろうか。

 18時36分直方発の「赤い快速」4連に乗り込む。黒をベースとして、細かい粒状のアクセントを入れた転換クロスシートを備えており、こんな車両で毎日職場や学校に通えるというのはうらやましいものだと思うが、列車の本数が絶対的に違う以上、安易に比較するわけにはいくまい。1両に8人程度の乗りである。

 今では分不相応としかいいようのない、ものすごい長大ホームのある勝野をはじめ、ところどころに往年の炭坑全盛期の名残が感じられる。

 新飯塚に18時48分に到着。本日はここで泊まる予定だ。歴史を感じさせる木の階段はすり減っており、張り出しのある風格の漂う駅舎もそのままである。筑豊本線電化完成時にはどうなるかわからないが、地方都市の中核駅でこれだけいい雰囲気を残している駅は貴重だ。

 改札口で例の切符を見せると、盛大に驚かれる。たんねんに見たうえ、いろいろな駅員が入れ替わり立ち替わりのぞきこんでくる。

「これからはどうされるんですか」

「今日ここに泊まって、明日は城野経由で日豊線へ行きます」

「はあーそうですか。ご苦労さまです、がんばってください」

がんばるも何も、列車に乗っているだけなんだけどな、と苦笑するが、こういう客に対してかける言葉を適切に選べ、というほうが無理なのだろう。向こうにしてみれば「お客様」であることにはかわりないけれど、通常の客と並列に扱うわけにはいかないだろうから。

 宿の位置がよくわからないので、駅前からPHSでコールすると、女将さんが直々に出迎えてくれた。

「寒いですねー、明日は雪になるそうです」

 九州に来てまで雪につきあうことになろうとは。商店街の脇を入ったところにある宿に入ろうとすると、人なつっこい犬が甘えてきた。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
204th津和野651→益田732531D
205th益田803→長門市955567D
206th長門市1002→厚狭1102728D
207th厚狭1120→下関11525543M
208th下関1235→小倉12485547M
209th小倉1327→博多1347613A(新幹線・こだま613号)
210th博多1358→南福岡14044137M(快速)
211st南福岡1445→原田14574341M(快速)
212nd原田1550→桂川16186628D
213rd桂川1626→吉塚17091659D
214th吉塚1716→折尾17573346M(快速)
215th折尾1800→直方18246567D
216th直方1836→新飯塚18484641D(快速)
乗降駅一覧
(津和野、)益田、厚狭、下関、小倉、博多、南福岡[NEW]、原田、新飯塚
[NEW]を付しているのは、この日にはじめて乗り降りした駅です。
訪問郵便局一覧
厚狭郵便局、下関郵便局、小倉駅前郵便局、原田郵便局(貯金のみ)

2003年12月1日
2007年2月26日、修正

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