宗谷本線の分水嶺

塩狩

しおかり Shiokari
塩狩駅
▲塩狩駅ホーム(奥は稚内方)《1993年9月16日撮影》

駅は林の中に

塩狩駅に停車中のキハ40系ディーゼルカー
【写真1】塩狩駅に停車中のキハ40系ディーゼルカー(奥は旭川方)。《1993年9月16日撮影》

宗谷本線最高点、石狩川流域と天塩川流域を画す分水嶺に設けられているのが塩狩駅です。駅は防雪林の中に囲まれるように位置していますが、すぐ近くを国道40号線が通っているため、写真で見るようなひっそりとした感じは受けません。

ホームは千鳥式に配置

塩狩駅駅舎を下りホーム側から望む
【写真2】塩狩駅駅舎を下りホーム側から望む。《1993年9月16日撮影》

交換可能駅で、下りホームが旭川方、上りホームが稚内方にずれている千鳥式配置になっています。両ホームの間は構内踏切で連絡していますが、遮断機がないため、横断には注意が必要です。なお、駅の出口は西側(下り線側)だけで、東側には小さな小屋があるのみで外には出られません。CTC化される以前は、駅員がここで上下列車の通票を持って行き来していたのでしょう。

ホームは長大でしっかりしたものですが、今では短編成の列車が中心で、1~2両のディーゼルカーがちょこんと止まります。

下りホームの上側に木造駅舎が

塩狩駅駅舎および下りホームを駅出入口付近から望む
【写真3】塩狩駅駅舎および下りホームを駅出入口付近から望む。《1993年9月16日撮影》

駅舎は下りホームよりも少し高いところに位置しています。駅の出入口からみると駅舎は少し外れたところにあり、旅客の動線とは大きく離れたところに位置しています。もともと集落の玄関口としてではなく、列車の行き違いのほうが主目的だったため、運転扱いをする駅員の便を図っていたものでしょう。駅というより、信号場のような外観です。塩狩駅の前後には、かつて手作業で管理していた名残の踏切小屋が残っていましたが、この塩狩駅も、古い時代の名残をよくとどめています。

駅舎は古い木造のものが健在で、待合室もそのまま使われています。ただし上りホームとはかなり離れているため、上り列車を待つ際には注意が必要です。

蒸気機関車時代は難所でした

塩狩峠の碑
【写真4】塩狩峠の碑。《1993年9月16日撮影》

塩狩駅は旭川駅から28.4キロで、これは長大な宗谷本線の中では1割を超えるに過ぎない距離ですが、このため下り列車はかなりの上り勾配になります。蒸気機関車の時代は補機が必要とされるような難所でしたが、逆にいえば写真映りのよい場所でもありました。

身を挺して列車を守った職員の碑が

【写真5】「長野政雄氏殉職の地」の石碑。《1993年9月16日撮影》

塩狩峠の名を高らしめたのは、三浦綾子の小説『塩狩峠』でしょう。これのモデルである殉職した鉄道職員、長野政雄氏の碑が建っています。

かつて、駅のすぐ近くにユースホステル兼営の温泉旅館があり、日帰り入浴にも対応していましたが、現在では廃業しています。駅周辺には人家はほとんどなく、旅館(温泉ではありません)が一軒ある程度です。

停車列車

確認中。

乗り場

西側(駅本屋側)から順に、1番線、2番線となります。

  • 1.宗谷本線下り 名寄、稚内方面
  • 2.宗谷本線上り 永山、旭川方面

駅名の由来

、石両国の境をなす分水嶺であることによります。

歴史

詳細は確認中。

1916年9月5日
国有鉄道(内閣鉄道院)宗谷線の蘭留-和寒間に、塩狩信号所設置。
1922年4月1日
信号場に昇格。
1924年11月25日
正規の駅に昇格。旅客のみの取扱いでした。
1927年9月1日
貨物営業開始。
1974年9月30日
この日かぎりで貨物営業廃止。
1987年4月1日
国鉄の分割民営化に伴い、JR北海道の駅となります。

周辺の見どころ

確認中。

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