駅舎は橋上に設けられており、東西自由通路を兼ねています。改札の正面に「みどりの窓口」があり、その近くに売店が設置されているなど、ごくオーソドックスなスタイルです。
出口は東西に設けられていますが、西口にはJRの駅事務所が入った鉄筋3階建てのビルが建ち、その周りに駅前商店街が形成されています。JRの駅から海にかけた一帯が、かつて重工業で発展した木更津市の中心地ですが、現在では空洞化が著しいエリアでもあります。
いっぽうの東口は、整備された駅前広場の周辺にそこそこの商店が建つものの、繁華街は形成されていません。こちらは路線バスの発着が盛んで、木更津市郊外のほか、東京湾横断道路(アクアライン)経由で川崎や東京へ向かうバスが発着しています。
島式ホーム2面4線から成りますが、このうち東側の路線には架線が張られておらず久留里線専用となっているため、内房線が2面3線、久留里線が1面1線という形になっています。
駅の南東側には車庫があり、久留里線のディーゼルカーなどが留置されていました。
バブル崩壊による景気低迷に加え、アクアライン開通後に見られた“ストロー効果”もあって、木更津駅前は長らく地価下落率ワーストポイントとして知られるようになってしまいました。駅西口付近に立地していた百貨店や大型スーパーなども相次いで撤退しており、商業地域の落ち込みは現在でも深刻なようで、昼間でもシャッターを下ろした店舗が多いのみならず、人通りが少なくゴーストタウン化した街路が見受けられます。
北から順に、1番線、2番線…となります。
木更津の地名は、ヤマトタケルの伝承がもとになるといわれています。かつてこの地でヤマトタケルを乗せた船が大波に襲われた際、同船していた弟橘姫が身を投げて海を沈め、のちにヤマトタケルが「君不去」と詠んだことによる、というものです。この伝承におけるヤマトタケルは山の象徴、弟橘姫は海の象徴と思われます。
姉ヶ崎から路線が延長された際に設けられた駅で、1912年8月に開業した際には終着駅でした。木更津から先、上総湊まで開通したのは1915年1月15日のことです。なお久留里線は、前身である千葉県営鉄道が木更津-久留里を1912年12月28日に開通させ、1923年9月1日に国有化されています。
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