両側に山が迫り、さらに上り坂が続きますが、これから本格的な峠にさしかかるというところに、大谷駅が設けられています。
相対式ホーム2面2線から成る地平駅で、浜大津方面行きホームの御陵方に改札口がありますが、小さな屋根があるのみの無人駅で、扉のない簡易式自動改札機が置かれているのみです。御陵方面行きホームとの間は、構内踏切で連絡しています。
駅のホームはかなり狭くなっていますが、特徴はなんといってもその急勾配。浜大津方面へ向かって上り40パーミルという急傾斜に大型の電車が停まる光景は、迫力満点です。ホーム上に設置されている駅名標やベンチなども、右側と左側で足の長さが変わっています。
大谷駅は、現在では京阪電気鉄道全線の中で乗降客数が最少の小駅となっていますが、かつて東海道本線が稲荷経由だった時代には、隣接して設けられていた東海道本線大谷駅との連絡駅として賑わいました。
大谷駅周辺は、逢坂の関を控えて峠越えに備えた茶店などが並んでいましたが、現在では国道1号線を通る自動車がどんどん通過していきます。駅前には大きめの料理屋が並んでいるほか、古くからの民家が建っています。
また、駅からほど近い位置にある蝉丸神社は、逢坂の関を詠んだ歌で知られる蝉丸を祀っています。逢坂の関については、蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあうさかの関」が知られていますが、のちには人の行き交う場、そして京の都とその外の境として位置づけられるようになり、「夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」(清少納言)、「逢坂の関のあなたもまだ見ねばあづまのこともしられざりけり」(大江匡衡)といった歌が詠まれました。
番線表示はありません。以下、北側(駅本屋側)から順に。
駅名の由来
大谷の地名は、両脇に山が迫っていることからついたものと思われます。
歴史
わずか2年足らずの期間ではありましたが、東海道本線(旧線)との接続駅となっていました。東海道本線が新ルートに移ってからは京津線単独駅となり、現在に至っています。
- 1879年8月18日
- 官営鉄道によって京都側より、稲荷-(旧)山科-大谷が開通し、暫定的な終着駅として官鉄の駅が設置されました。
- 1880年7月15日
- 官営鉄道の大谷-石場-(旧)大津が開通し、官鉄の中間駅となります。
- 1912年8月15日
- 京津電気軌道が古川町(のちの東山三条、現在は廃止)-札ノ辻(現在は廃止)を開通させます。
- 1996年--月--日
- 京都市営地下鉄東西線開通に先立ち、ホーム長が2両対応から4両対応に延長されます。