行橋から犀川にかけて広がる平地から、だんだん丘陵地帯に差し掛かるようになると、崎山に到着します。この先で田川線の勾配が急になるため、かつては長大編成の石炭輸送を担う機関車の付け替えなどが行われていましたが、今では何もない中間駅になっています。
行橋から犀川にかけて広がる平地から、だんだん丘陵地帯に差し掛かるようになると、崎山に到着します。この先で田川線の勾配が急になるため、かつては長大編成の石炭輸送を担う機関車の付け替えなどが行われていましたが、今では何もない中間駅になっています。
駅本屋を挟んで千鳥式に配置された、相対式ホーム2面2線から成ります。運炭線であった田川線の交換可能駅では、通票の授受などを考慮して編成の先頭(機関車部分)が駅本屋に近くなるように設計されていましたが、この崎山も同様の設計になっています。もっとも、崎山駅の全身である崎山信号場が開設されたのは1954年と戦後のことで、それからほどなく筑豊炭田の斜陽化が進んでいったことを考えると、筑豊の栄華を示した最終期の設備といえるかもしれません。
ホームは非常に長く、両ホームともおおよそ6両程度の列車は停まれそうです。下りホームの端のほうはすっかり草に覆われていました。下りホームの外は水田なので駅の外に出ることができず(線路を強行横断すれば別ですが)、人が出入りすることはほとんどないのでしょう。また、上りホームの北側には側線の跡が見えます。
交換可能駅なので信号機が設置されていますが、この信号機の背がずいぶんと低いのには、何かわけがあるのでしょうか。
さて、駅舎をホームから眺めると、なんとも奇妙な形状になっています。すなわち、待合室や出札窓口を備えた部分はホームと同じ地盤上に設けられた平屋建てで、その脇に地平に基盤を置く2階建てがつながっています。左側の建物が2階建てになっているのは、機関車の付け替えなどに伴う作業を監視する必要があったためでしょうか。
駅舎に近づくと、出札窓口には什器がいろいろと置かれたままとなっていました。現在では当然のように無人化されていますが、列車閉塞が自動化される以前はこの駅にも要員が配置されており、すっかり古びたこの駅舎もそれなりの格好がついていたのでしょう。
待合室内には、壁面据付の木製ベンチがあるほか、プラスチック製の椅子が置かれていましたが、正直なところ決して広くない待合室をさらに狭くしているだけのような印象を受けました。待合室内には小さな書棚があり数冊の本が置かれていましたが、相当な年代ものが多く、あまり時間つぶしができそうには見えません。
駅舎の待合室部分は地平よりも少し高いところにあるため、階段をおりて外に出ることになります。正面からみると、窓枠が傾ぎ屋根も波打っており、相当に老朽化しているのが見て取れます。設置から50余年を経過しているため当然ともいえますが、戦前生まれの柚須原あたりのほうがまだ元気そうに見えるのは気のせいでしょうか。
駅前には農家が数軒集まっていますが、駅前商店などもありません。その一角に「崎山駅竣工記念」という大きな石碑が建っています。
駅の周辺は静かな農村地域で、少し離れたところには造り酒屋があります。
東側(駅本屋側と反対側)から順に、1番線、2番線となっています。
崎山とは、山が平地に延びているところをいう
[1]という説があります。
戦後に設置された駅です。
確認中。
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