筑豊地域はかつて日本最大の採炭地域で、明治時代から網の目のように鉄道が張り巡らされていました。それら鉄道網の一大ジャンクションとして、特に貨物列車の拠点駅だったのが、この直方です。直方駅から直接搬出される石炭よりも、各路線から集まってきた石炭列車をここで中継する役割を担っていました。
もっとも、筑豊炭田は“エネルギー革命”以降急速に衰退、1980年代初頭までに石炭列車は事実上終焉を迎えています。その後の直方は、車両や人員を配置する運転拠点としての立場は維持しつつも、営業上は単なる福北ゆたか線の中間駅となっています。
市街地に面している直方駅舎は、木造平屋建ての横に長いものです。外観は、袴腰屋根を基調としつつ横全体に大きな庇を配するもので、佐賀、鳥栖、熊本、大分などに設けられた九州拠点駅のスタイルに似ていますが(鳥栖のみ現存)、屋根と庇の傾斜が異なりややバランスが崩れており、庇の部分が文字どおり取って付けたような印象を与えます。車寄せが実にみごと(後述)であることも含め、立派な庇に本体が負けているように思うのは、考えすぎでしょうか。かつての上熊本がやや近い印象で、以前は上熊本と同様の端正な寄棟屋根でしたが、現在は上記写真のように改修されています。
玄関に設けられた車寄せは、やはり九州拠点駅スタイルを踏襲したものですが、現存している中ではもっとも立派な形状ではないでしょうか。上述の各拠点駅に比較して支柱がしっかりしており、安定感を与えています。
それぞれの支柱は3本から成り、上、中、下の各パーツに分ける形を取っています。中部ではエンタシスとなっており、上部および下部の方形柱とコントラストを付けているなど、細かいところが凝っています。鳥栖の車寄せのようにマークを彫り込むことでアクセントを付けているのではなく、支柱そのものに手を加えています。
庇の下は、駅の東側ぐるりと設けられた回廊と化しています。駅前広場の整備に伴い段差が解消され、通行が容易になっていますが、雨天でも足もとは大丈夫なのでしょうか。
駅舎は大柄ですが内部はガランとした印象があり、かなりのキャパシティがある待合室も、お世辞にも空間を有効活用できているようには見えません。出札窓口や「みどりの窓口」はもちろん、東筑軒のうどん屋やキヨスク、ベーカリーなどがあり、旅客駅としての機能はひととおり満たしているといえますが、照明がごくささやかであるうえベンチなども少なく、前時代の駅という印象を拭えません。内部は数度にわたって大きく改装されているようですが、駅舎本体を全面改築しないまでも、現状のまま使い続けるのは厳しいでしょう。
駅改札を入ってすぐのスペースは通路となっており、ここから跨線橋を通って各ホームへ向かいます。この通路はかつて1番ホームとして使われていましたが、地盤沈下による沈降に伴いホームとしては廃止されています。駅全体が地盤沈下したため1929年に線路やホームがかさ上げされていますが、1番ホームは駅舎と一体化しているため工事が困難であり、結局そのままになったとのこと[1]。現在は旧ホーム前は線路も撤去され、庭園として整備されています。
駅本屋前通路と2面のホームを連絡する跨線橋は、時代物ながらしっかりしたトラス橋になっています。下の写真ではわかりませんが屋根がカマボコ状になっており、かなりの広さがあります。
この跨線橋は内部で仕切られており、北側(駅本屋側)3分の2ほどが構内連絡通路、南側3分の1ほどが線路をオーバークロスする東西自由通路として使われています。跨線橋の幅が広いからこそできた芸でしょうが、後者の自由通路部分はかなり狭く、人がすれ違うのがやっとです。
直方駅には、駅本屋のあるメイン出口のほか、跨線橋の西端に別途西出口が設けられています。こちらは現在無人となっており、簡易型自動改札機が設置されていました。
西出口から西側へは、構内跨線橋とは別に新たに設置された跨線橋があり、これを通って駅の西口に出ることができます。
駅舎は、1910年3月につくられた古いものです。初代博多駅を移築したという説もありますが[2]、直方駅でまとめた駅史にはそのような記述はありません[3]。また、初代博多駅は吉塚駅に移築されたという説もあります[4]。この点については一次史料による確認が求められますが、現存している史料だけでは判断が困難です。資材が転用された可能性はありますが、現時点では裏付けが取れていない未確認説としておくべきです。
駅前はロータリーが整備されています。かつて直方駅前のシンボルだった採炭夫像は姿を消しており、駅周辺を散策しても見あたらなかったのですが、撤去されたのでしょうか。西鉄とJRのバスターミナルが直近にあり、博多など各方面へ向かう路線バスが頻発、交通の要衝としての機能を備えています。ただし駅前に形成している商店街は寂しく、ビルの1階が空き店舗ということも多く、やはり景気がよい街とはいえないようです。
駅の南東側には、城下町時代からの古い街並みをうかがわせる通りが断続的に残っており、これがもととなり炭鉱街へ発展していったため、無機質な雰囲気の濃い筑豊の街のなかで、特徴のある一角となっています。2008年11月現在、この一角を「レトロタウン」(仮称)として整備する動きがあります[5]。その一方で、駅舎を新築し現在の直方駅舎は解体する方向で駅周辺が整備される計画もあり、あと数年で直方駅をめぐる光景は大きく変わる可能性があります。
現在の直方駅舎はかなり改修されており、車寄せ以外の部分で文化財的な価値が高いようには見えず、いまの設備のままでは駅としての機能を果たせるものではないことは確かです。しかし、九州拠点駅標準スタイルの駅が少なくなった現在、この駅舎を取り壊してしまうのは、もったいないように思えます。直方に比べて原形をよく留めている鳥栖も、九州新幹線開業前後に取り壊される可能性が高いことを考えれば、現駅舎は解体せず、バリアフリー設備と待合室内のリニューアルを施すほうが得策に思われます。
一部報道によると、直方駅舎のエントランス部分のみが保存されるとのこと[6]。エンタシスの特徴ある玄関は目を引きやすいということなのでしょうが、大きな庇とコリドーもこの駅の特徴であるだけに、配慮が望まれるところではあります。(2009年7月7日)
停車列車 [2017年6月現在]
特急「かいおう」の始発駅です。なお「かいおう」の名称は、直方市出身の現役(2008年12月現在)大相撲力士、大関魁皇から取られたものです。
駅本屋側(東側)から順に、1番線、2番線…となります。列車の発着方向については確認中。
駅名の由来
直方の地名の由来には諸説あり、南北朝時代に遠賀川以東に足利尊氏、遠賀川以西に懐良親王が布陣したときに両者を「天皇方」「親王方」と呼び、これが転じて「のおがた」になったという説が有力ですが、地名としての直方が文書で出現する時代とのずれがあり、何ともいえません。
歴史
歴史のある路線の中核駅として発展してきました。
- 1891年8月30日
- 筑豊興業鉄道によって若松-直方が開通した際、終着駅として直方駅が開業。
- 1892年10月28日
- 直方-小竹開通、中間駅となります。
- 1893年2月11日
- 直方-金田開通(現在の平成筑豊鉄道伊田線)。
- 1897年10月1日
- 筑豊鉄道(1894年8月に筑豊興業鉄道が改称)が九州鉄道に合併され、九州鉄道の駅となります。
- 1907年7月1日
- 九州鉄道が国有化されます。
- 1910年3月1日
- 現在の駅舎が完成、使用開始[7]。
- 1959年10月27日
- 構内跨線橋「御館橋」完成、使用開始[8]。
- 1966年9月1日
- 西口開業[9]。
- 1984年1月31日
- この日かぎりで貨物扱い廃止。
- 1987年4月1日
- 国鉄の分割民営化に伴い、JR九州の駅となります。
- 1989年10月1日
- 伊田線が平成筑豊鉄道に転換、筑豊本線単独の駅となります。