開業以来の風格ある木造駅舎は現在も街の玄関口

大隅横川

おおすみよこがわ
Osumiyokogawa
大隅横川駅
▲大隅横川駅駅舎《2005年3月8日撮影》
大隅横川駅ホーム側
【写真1】駅舎をホーム側から見るだけで、堂々とした貫禄を感じます。《2005年3月8日撮影》

横川町の玄関口にあたる駅です。肥薩線が南から開通した際には終着駅で、当時は数多くの鉄道職員が勤務していたものと思われます。

開業当初からの重厚な木造駅舎が、現在も大きく手を加えられることなく残っており、同線の嘉例川とともに、まことに貴重な存在です。明治時代の建造物らしく、非常に天井が高くゆったりした空間となっており、一見すると二階建てのようでありながら、実際には平屋です。それでいて開口部がゆったり確保されており、明治の木造建造物としてはガラス窓が多用されていることもあって、屋内も比較的明るいのが特徴です。玄関に張り出している巨大な庇が、駅舎に貫禄をもたらしています。

木造の古い駅舎が100年以上の長きにわたって持ちこたえ、無人化された現在も荒れることなくきれいに利用されているのは、地元の人による手入れが行き届いていることを証明しているにほかならず、頭が下がる思いになります。

機銃掃射の跡
【写真2】ホーム柱には機銃掃射の跡が生々しく残っています。《2005年3月8日撮影》

屋根や軒はもちろん、駅の出札窓口なども木製のものが使われており、ラッチの一部が鉄製となっているのみで、往年の鉄道駅の雰囲気が、タイムスリップして再現されたような錯覚に陥ります。駅事務室(立ち入りはできません)や待合室もすっきりしており、少なくとも駅舎の内部やホームについては、すっきりした形で残されています。

柱には、第二次大戦中に機銃掃射を受けた際の弾痕がそのまま残っています。駅舎を構成する個々のパーツが、時代の貴重な生き証人となっています。

通過列車用タブレット受け
【写真3】下りホームに残るタブレット受け。かつては赤く錆びていたものの、きれいに塗り直されたようです(「通票よんかく」による)。《2005年3月8日撮影》

基本的な配線は2面3線となっていましたが、現在では中線が撤去され、駅舎側の上り片面と、島式ホームの東側下りの2面2線となっています。両ホームは 、駅の南側にある構内踏切で連絡しています。跨線橋などという無粋なものは存在しません。

下りホームの吉松側には、かつてこの駅を通過する優等列車がタブレットの授受を行う際に用いる装置が、今なお残っていました。

駅前広場は比較的ゆったりしており、そこから道路が延びるという、地方の鉄道駅に典型的な構図がやはり残っています。駅の玄関を出てすぐ右手には「開業百周年記念碑」が建てられています。嘉例川とは異なり、町役場などの施設が駅周辺に立地しており、人の出入りがそれなりに見られ、現役の駅という実感があります。

その一方で、軒下に汽車ポッポのオブジェが配されたり、駅舎じゅうに豆電球が張り巡らされたりするのは、観光イベントの一環なのかもしれませんが、やや興ざめではあります。古くからのものが残っている場合には、そこから得られるであろうノスタルジーを最大化するような手法がよいと思うのですけれど。

停車列車 [2013年9月現在]

確認中。

乗り場

確認中。

駅名の由来

確認中。

歴史

1903年1月、国分(現・隼人。現在の国分とは異なる)から北上してきた路線の暫定終着駅として、「横川」の駅名で開業しました。当時、八代から人吉、吉松、国分を経て鹿児島へいたるルートが鹿児島本線として計画されており、その一環として開業したものです。同年9月5日には路線が吉松まで延長されたため、終着駅だった期間はごく短いものでした。1920年9月1日に現駅名に改称されています。

鹿児島本線が川内まわりになってからは、ご多分に漏れず客貨とも取扱量が減少、1971年2月28日かぎりで貨物営業が廃止され、1986年11月2日を最後に無人化されています。

九州新幹線の新八代-鹿児島中央開業にあわせて、肥薩線の観光輸送にスポットがあたるようになり、新設された特急「はやとの風」が停車するようになりました。嘉例川と同様、鹿児島方面への輸送需要を考慮するのではなく、駅そのものへのアクセスを図った措置といえましょう。

周辺の見どころ

見まごうことなく、駅そのものが見どころといえます。

その他

【肥薩線】 八代坂本葉木鎌瀬瀬戸石海路吉尾白石球泉洞一勝地那良口西人吉人吉大畑矢岳真幸吉松栗野大隅横川植村霧島温泉嘉例川中福良表木山日向山隼人

2005年3月20日

▲ このページの先頭へ ▲