利用実態に比して過大な駅舎を擁する駅

普代

ふだい Fudai
普代駅
▲普代駅駅舎《2012年11月17日撮影》

ホームは築堤上に

普代駅ホーム
【写真1】普代駅ホーム。《2012年11月17日撮影》

普代駅は、三陸鉄道各駅の中でも屈指の大きさを擁する駅です。1975年7月に開業したときには国鉄久慈線の暫定終着駅で、また国鉄バスの発着場の拠点だったことによるものでしょうか。愛称は「はまゆり咲く」だそうですが、これはどう見ても連体修飾語であって、名詞とは思えません。

島式ホームは、普代の市街地からやや南、高い築堤上に設けられています。

島式ホームに待合室

普代駅ホームに停車中のディーゼルカー
【写真2】普代駅ホームに停車中のディーゼルカー。《2012年11月17日撮影》

ホーム上の中ほどには上屋が設けられているほか、待合室も設置されています。ここで列車の行き違いが行われます。なお、かつては側線が設けられていましたが、現在では本線から切り離されています。

地下通路には壁画が

普代駅地下通路
【写真3】普代駅地下通路。《2012年11月17日撮影》

ホームからは階段を降りて地下通路を通って、地平にある駅本屋へ向かいます。鉄建公団線に見られる独特の冷たさを感じる設備ですが、少しでも暖かみを持たせようとしたのか、はまなすやうみねこが壁面に描かれています。

ホームと駅舎は少し離れて

普代駅ホームから駅舎への通路
【写真4】普代駅ホームから駅舎への通路。《2012年11月17日撮影》

地平に降りても、築堤と駅舎の間は少し開いています。それにしても、【写真4】を見るだけで、特急停車駅クラスの大がかりな設備であることがうかがえるでしょう。国鉄新線建設につぎこまれた経費が唯々として認められてきたことの妥当性を、今になって黙しつつ語っているように思います。

出札窓口が観光案内所を兼ねて

普代駅駅舎内
【写真5】普代駅駅舎内。《2012年11月17日撮影》

改札口は観光案内所となり、ここで乗車券類の販売が行われています。私が下車した2012年11月には、2011年3月に発生した東日本大震災当時の各種写真が展示されていました。かつてJRバスが運行していた時代は、この窓口はJRバス普代駅前駅としてJRバス東北が三鉄から業務を委託していましたが、JRバス撤退後は一般的な委託に変わったようです。

駅舎にはアンテナショップがつながる

普代駅駅舎に連なる施設駅舎内
【写真6】普代駅駅舎に連なる施設駅舎内。ただし営業していない店舗もありました。《2012年11月17日撮影》

駅舎につながる北側のエリアには、「ふだいのアンテナショップ」の看板を掲げる商店(土産物屋といったほうがよいか)、飲食店、スナックなどが入っています。もっとも、飲食店は駅のホーム側に向けて大々的にメニューをアピールしていたのですが、果たして営業しているのかどうか定かでない状態ではありました。

広大な駅前広場も閑散と

普代駅駅前広場
【写真7】普代駅駅前広場。特急停車駅クラスの巨大で立派な駅前広場です。《2012年11月17日撮影》

駅前広場も非常に立派なもので、これまた地方都市の特急停車駅クラスといってよいでしょう。巨大なロータリーには、大型観光バスが何台も並んでも問題ない状態になっています。その一方で、駅前には交番くらいしかなく、街外れにあることもあって閑散としています。駅前からは、JRバスにかわって普代村営バスが発着しています。

駅の東側では重機が動いて崖の防御工事を行っていました。

乗り場

西側(駅本屋側)から順に、1番線、2番線となります。

  • 1.北リアス線下り 久慈方面
  • 2.北リアス線上り 宮古方面

駅名の由来

確認中。

歴史

国鉄末期、久慈線が暫定開業した際に設置された駅です。国鉄久慈線時代は終着駅でした。

1975年7月20日
国鉄久慈線の久慈-普代間が開業した際、久慈駅開業。
1984年4月1日
国鉄久慈線(第1次特定地方交通線指定)が三陸鉄道に転換し、また鉄建公団久慈線(B線)が開通、三陸鉄道北リアス線の駅として開業。
2011年3月11日
東日本大震災が発生、三陸鉄道が全線で運休。
2012年4月1日
北リアス線の田野畑-陸中野田間が復旧、運転再開。

周辺の見どころ

確認中。

◆ミニコラム◆ 過去の悲劇が未来に生きた

2011年3月11日に発生した大津波は、東北地方各地の港町に甚大な被害をもたらしましたが、岩手県普代村は、高さ15.5メートルの普代水門および太田名部防潮堤が整備されており、これが津波の勢いを大きく減衰させました。この結果、水門や防潮堤の内側での被害は軽微なものにとどまり、船の様子を見にいった1名の行方不明者を除き震災による死者はゼロでした。もちろん、水門の外側にあった水産加工場が壊滅するなど、大きな被害はあったものの、水門と防潮堤が村を守ったといってよいでしょう。

普代村は、1896年に明治三陸津波、1933年に昭和三陸津波を経験しており、大きな被害を受けてきました。当時の村長・和村幸得氏は「明治の津波では15メートルの波が普代を飲み込んだ」ということを背景に、建設当時に過大な設備として批判を退けるように、巨費を投じて高い水門と防潮堤を築きました。これが、東日本大震災で生きたことになります。

もちろん、この“決断”を安易に美談として語るのは慎むべきです。また、公共インフラの整備には、財政のほか政治作用も働き、先を見通しての整備は非常に難しいのが実情です。しかし、過去の悲劇を忘れずに、それを生かすことが、防災への第一歩となることは、心しておかねばならないでしょう。

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