川路駅
▲川路駅駅舎《2005年8月21日撮影》

川路駅ホーム

【写真1】川路駅ホーム。《2007年7月28日撮影》

単式ホームに鉄骨のホーム上屋から成るシンプルな駅で、飯田線移設に伴い事実上新設された駅です。

駅舎は無人駅仕様の簡易駅舎で、かつて桑の生産が盛んだったことから、繭をモデルにしたデザインのものになっています。ホームが地平より少し高いところにあるため、ホームとの間には階段があります。

駅前は茫漠たる空き地が広がっており、公園などとして整備されている途中のようです。駅から少し離れたところでは宅地開発が行われ、新しい一戸建て住宅も見られます。1950年代までは桑の一大産地でしたが、1961年6月の大災害で桑畑はほぼ全滅しているようです。

 

停車列車 [2009年5月現在]

特急は停車しません。

駅名の由来

川路の地名は、川の流水がつくった土地が広がっていることに由来します。

歴史

伊那電気鉄道開通の際に設置されました。なお、2001年4月1日より天竜峡-時又が新線に切り替えられた際に川路駅も移設されています。

周辺の見どころ

コメント準備中。

◆ミニコラム◆ 地域全体の土地かさ上げ事業

飯田線は、急峻な山岳地帯を、水位変動の激しい天竜川に沿って走っているため、水害や河川工事に伴って路線変更ということがたびたびありました。その中でも、沿線を含めてきわめて大がかりになったのが、この川路を中心とした治水事業に伴う路線の移動です。

もともと、伊那谷南部では大雨と洪水による災害が頻繁に起きていましたが、1961年6月の「三六災害」は特に激しいもので、川路地区はほぼ全域が水没し土砂に埋もれ、家屋の全半壊約140戸、床上浸水約70戸という壊滅的な被害が発生。川路地区は「災害危険区域条例」の指定地となり、家屋の新築が事実上禁止となったうえで、越流堤方式による治水対策が行われました(1970年完成)。このため、線路付け替え前の段階で川路駅周辺からは人家がほぼ消滅、駅一帯は廃屋ばかりのゴーストタウンと化しており、伊那電気鉄道開業以来の木造駅舎にも人の気配がなく、不気味な状態になっていました。

しかしこれもあまり効果なく、1983年9月には再び大水害に見舞われ、半壊5戸、床上浸水25戸、床下浸水14戸というありさまでした。これを受けて、高い堤防を新たに築いたうえ、対象地域全域にわたり、従来の土地から低頭までの高さまで盛土を行うという、過去に例を見ない巨大な工事を行いました(2002年完成)。これによって災害危険区域からやっと解除され、ぽつぽつと遠巻きに住宅も建つようになってきました。

移設後の飯田線は、新設された堤防のすぐ外側を走っています。カーブや急勾配がなくなり、電車の走行がスムーズになりましたが、移設の背景には、人の住むところをまるまる大改造する大規模な対策がなされたことを、忘れてはならないでしょう。

2009年9月29日

▲ このページの先頭へ ▲