一志まで田園地帯の平坦地を進んできた名松線のディーゼルカーは、一志を出ると丘陵地帯に入り、勾配を登りはじめます。車窓の左右に丘が見えるようになり、それがしだいに迫ってくるようになると、小集落の脇にある片面ホームのみの無人駅、井関に到着します。
一時は名松線の終着駅となり、その後も交換可能駅だった貫禄か、現在でも対向式ホームが草にすっぽり覆われながらも残っています。驚いたのは、レールまでしっかり残っていたこと。本線とは切断されているため列車が進入することはできませんが、名松線の交換可能駅を増やす場合は、この井関が想定されているのでしょうか。
実際に使われているホームは片面のみで、その半分以上が下草で覆われています。かなり年季の入った待合室がデンと構えているものの、例によって駅舎は解体されて跡形もなく、フェンスの切れ目からホームに出入りすることになります。
駅前は駐車場になっているほか、伊勢奥津方左手には工場があり、ここへの通勤客利用があるものと推測されます。しかし、駅を出て真っ先に目にはいるのが、完全に朽ちて崩れている廃屋であるあたり、過疎化が進行している山村の現実をうかがわせます。もちろん、現在も人が生活している住居もあるのですが、家と家の間が農地ではなく荒れ地になっているところが多く、離農も多いようです。
「井関」のもとは「井堰」と推測され、かつて川に堰が設けられていたことがうかがえますが、現在では川の存在はあまり大きな意味を持っているわけではないようです。あるいは、「伊勢木」、すなわち伊勢神宮へ奉納するご神木の供給地だったのかもしれません。いずれにせよ「井関」という漢字から「ぜ」という濁音になるのは不自然で、初見で正しく読める人はあまりいないでしょう。
大仰の集落が丘を越えた北側にあり、こちらには小学校や個人商店などもありますが、歩いて20分程度はかかるため、名松線からアクセスする人はほとんどいないでしょう。なお、実際に丘越えの道路を歩いたところ、歩道が整備されており安心して歩けたものの、舗装などがかなり荒れており、歩行者はきわめて少ないようです。
駅名の由来
本文を参照のこと。
歴史
名松線の第2期線として、1930年3月に権現前から井関までが開業しました。その後、家城まで開通したのは、1931年9月のことです。貨物営業は1965年9月末かぎりで廃止されています。
- 【1930年3月30日】 国有鉄道(鉄道省)によって、名松線の権現前-井関間が開通し、井関駅開業。
- 【1931年9月11日】 井関-家城間が開通し、中間駅となります。
- 【1965年9月30日】 この日かぎりで貨物営業廃止。
- 【1987年4月1日】 国鉄の分割民営化に伴い、JR東海の駅となります。
周辺の見どころ
確認中。