第1日(1999年12月16日)

稚内-新旭川-網走

 6時きっかりに目が覚める。前日の晩には、9時半に床に就いているから、当然の結果ではある。

 次の瞬間、布団を通じてびりびりと浸み入ってくる冷気に、旅先にいるんだな、と思う。これこそが、家とは異なる“宿”にて得られる醍醐味だ。それに加えて、これまで経験のない「最長片道切符」の初日でもある。気がたかぶり、ふだんに比べてはるかに頭がシャキッと冴える。

 身体を起こしてごそごそやっていると、

「もうお目覚めですか、おはようございます」

と、宿のおかみさんがコーヒーを持ってきてくれた。

 マグカップにたっぷりと入ったコーヒーをすすりながら、この地が“さいはての地”であるという「観念」を、頭の中であらためて整理し直す。ここは日本最北端の地、北海道稚内市。そして、これから乗る駅は、例の切符の使用開始地点でもあるわけだ。時間の観念と場所の観念とが結びつく。その瞬間、自分がこの地にいるという事実が、新しい一歩を踏み出そうとしていることと同値に考えられる。もちろん、踏み出すといったところで、これから足を運ぶ稚内駅は、前日降りたばかりなのだし、そんな単純に割り切れる自分の気楽さも大したものではあるが、もとよりその程度のお気楽さなかりせば、こんな旅などできるはずもない。

 おかみさんにていねいに送り出してもらい、気分は爽快。駅は、宿を出て目と鼻の先にあるので、じゃりっ、じゃりっ、という足音を数回鳴らすと、もう駅舎である。6時20分、北国の朝は遅く、駅前広場は薄明のなかにうすぼんやりとしていた。

 最長片道切符の第一列車は、稚内6時41分発の名寄行きである。旭川での接続がうまくいかないので、7時52分発の急行「宗谷」に乗っても、そこから先のスケジュールには問題ない。しかし、急行「宗谷」は特急なみの2人掛けシートだし、多くの駅を通過して先へ先へと急ぐ列車である。最長片道切符の旅には、急ぎということばは似合わない。それに、より“普段着”らしい雰囲気を帯びている鈍行の方が楽しいし、何より急行料金1,260円が浮く。起きられなければ急行に乗るつもりだったが、きちんと目が覚めたのは、旅先だから、というべきか。

 駅舎に入り、改札口の前に立つと、ほどなくして改札が始まる。列車の運転が頻繁でない駅では、列車の発車時刻が近づいてから、その列車に乗る客に対して改札を行う、いわゆる“列車別改札”という方法が多くとられている。自動改札機が大都市圏のみならず全国に広がっていることもあって、列車別改札は減りつつあるけれど、この稚内に自動改札機が導入されている光景はどうにも想像できない。

 さっそく、例の切符を呈示する。多少の気恥ずかしさはあるが、切符そのものに問題があるわけではないし、何事も最初が肝心とばかり、キンと背筋を伸ばす。

「おー、すごいね…、こりゃ…」

 切符を手にした駅員氏は、ためつ、すがめつ、じっくりと見ている。この間、改札はストップしてしまうわけだが、どのみち客の数は大したことがないので、列の後ろで舌打ちの音が聞こえてきたりはしない。のんびりしたものである。

 ホームにぽつんと待機している銀色のディーゼルカーは、単行(1両だけ)で、しかもワンマン運転である。ドルルルル、というアイドリング音が、まだ静けさを底に沈めた北の街に響いている。

 宗谷本線は、もとより「本線」を名乗りながらも、「支線」を従えていない寂しい路線である。もともと、北海道には多くの鉄道路線が敷設されていたのだが、国鉄末期に廃線指定を受けた線区は、第3セクター化された池北線(のち、北海道ちほく高原鉄道)を除き、すべて廃線バス化されてしまった。この中には、「本線」を名乗っていた名寄本線まで含まれていたぐらいである。その後も、函館本線上砂川支線(砂川―上砂川)、深名線(深川―名寄)が、JR北海道によって廃止されている。この結果、留萌本線や釧網本線、石北本線に日高本線、そしてこの宗谷本線は、「支線をもたない本線」に成り下がってしまったのである。もっとも、これらの5本線の実情をみると、「どこが本線なんだか…」といいたくなるようなローカル線と化している、という点でも共通している。

 そんな宗谷本線で名寄まで行くわけであるが、稚内を発車してから、次の市制施行都市駅である名寄までの距離は、実に183.2kmとなり、これは東京から静岡までの距離に匹敵する。この間にある町村は、豊富・幌延・中川・音威子府・美深の5つだけというのが、北海道のスケールを実感させる。もちろん、そんな「観念」が先入観となり、とんでもない思いこみにつながる可能性はあるのだけれど。

 車内に荷物を置いてから、いったん改札外に出てビールを買いに行く。朝酒など、ふだんの生活ではまず考えられないし、そんなことを実行すれば、文字どおり身上つぶすだろう。しかし、列車に乗っての雪見酒としゃれこむときには、ビールがいちばん似合うというのが私の考えだ。特に、北海道ではそう思う。雪が多い割に、空気が乾燥しているせいなのかどうかはわからないが、ともかく私の場合は、そういう“定式”が決まってしまっている。

 各ボックスに1人以下という、すこぶる寂しい乗車率で発車。「第一列車」の発車である。身体に緊張が走り、思わず、ブルッ、と身震いする。

 まだ薄暗い市街地を、ごろごろと走ると、数少ない有人駅、南稚内に到着。ここで数人の乗客があるが、車内が寂しいことに変わりはない。

 南稚内を発車すると、ひたすら雪原が続くが、その雪は景色のすべてを覆い尽くしているわけでは決してなく、隙間すきまに顔を覗かせる草木が、かえって微妙なハーモニーを醸し出す。

 右手に、ほんの一瞬だが、日本海が見える。ドス黒い荒れた海だが、一昨日にさんざん目にしてきた日本海とは異なり、引き寄せられるような怖さというよりも、取って食われそうなまがまがしさを感じる。空の具合がよければ、ひょっとしたら利尻富士が見えるかも、と期待していたのだが、この薄闇の彼方にかかる景色を望むことはとうてい無理のようだ。

 ローカル線に乗った印象として「窓の外には何もない」と記したことは過去にもあるが、雪の宗谷本線となると、ほかに使うべき言葉もあまり思い浮かばない。時おり、吹きさらしの中に、ぽつりぽつりと建物が見えると、ディーゼルカーはスピードを落とし、律儀にひと駅ずつ停まっていく。乗る客がいるときもあるけれど、人の気配などまったくない駅のほうが多い。余剰となった貨車を改造して待合室として利用している駅が目立つ。

 ただ、そんな“駅”であっても、その駅と駅との距離はかなり長い。私が毎日乗っている小田急線の急行電車などに比べると、ずっと「走っている」時間が長い。

 列車は、外観はともかく実質はいいトシをしているのだが、勾配がさほどでもないせいか、まるで口笛を吹きずさんでいるような軽快な足取りで、雪煙をあげて前進していく。時間が経ち日が昇るにつれ、どんよりとした黒い雲が目につき、ちっとも明るくならないのだが、そんな空をも鼻で笑っているような感じである。

 兜沼という小駅で、反対方向の列車と行き違いをする。ここで2人が乗車する。ここまでの駅にあったのは、人はおろか妖怪も住まいそうにない駅舎だったが、ここには瀟洒な建物が待っていた。対向列車には、ボックスあたり2人以上が乗っており、まずまずの乗車率だ。稚内への通学列車として機能しているのだろう。当方は、相変わらず暖気を輸送するに等しい状態であるが、これから先、小駅に停まるたびに、少しずつ乗りこんでくる。

 雪をすっぽりと被った、トドマツと思われる針葉樹が続く。どうも私は樹の名前を正確に言い当てることができず、こんな樹だ、という感じで伝えるしかなく、歯がゆい思いをすることが多いので、ひょっとしたら違う樹かもしれないが。

 大きめの建物が現れ出すと、豊富に停車する。石油分が混ざった独特の温泉が涌く街として有名であり、稚内で温泉が掘り当てられる前は「日本最北の温泉」として扱われていた。そんな駅だけに、ここで一気に5人が下車する。反面、乗ってくるのはわずか1人。立派な駅舎があるが、対向列車との行き違いがあるでもない。運賃収受は駅では行わず、運転席にいるワンマン運転士が行っていることをみると、駅にいるのはきっぷ販売の委託員であり、JRの職員ではないのであろう。

 再び「閑散」という表現が似つかわしくなったディーゼルカーは、木立のないまっすぐの雪原を走る。雪の下には、湿原が広がっているはずだが、白い絨毯はすべてを隠してしまう。

 7時44分、幌延着。すでに1時間以上乗ってきたことになるが、とてもそうとは感じない。ここでも下り列車と行き違いをするが、向こうもガラガラである。

 サイロが点在する。農業にはどう見ても不向きな土地柄であるが、牧業もかなり厳しそうだ。

 このあたりから、天塩川が寄り添ってくる。全長256km、日本で4番目に長い河川だが、流域面積は5,590km2に過ぎず、京阪間を流れる淀川以下に過ぎない。すなわち、集める水量が少なく、その少ない水が長きにわたってとうとうと流れていることになる。急傾斜を一気に流れる川の多い日本の中で、すこぶる特殊な川といってよい。

 このあたりの駅には、「駅前広場・駅前道路」が整備されており、駅の正面に通りがずっと延びているという「正統派」の駅があるかと思えば、1両分のホームが申し訳程度に設置されているだけで、アプローチも隣接する道路から細い階段を登るだけ、というパターンの駅もある。「駅型」と「仮乗降場型」とでもいえばよいだろうか。北海道では、各地でこういった「仮乗降場型」駅を見受けるが、この宗谷本線には特に多いようだ。まだ北海道2日目にして「最長片道切符の旅」初日ということで、神経が鋭敏であることもあろうが、そんな気がする。

 3人が乗車した雄信内(おのっぷない)を過ぎると、トンネルに入る。ここからしだいに、山の中へと分け入っていく。ところどころ氷結している天塩川の水は、厳しい寒さにも関わらず、無表情というか、退屈そうな顔を見せている。

 問寒別(といかんべつ)で、高校生(ひょっとしたら中学生かもしれない)が6人乗ってくる。口々に「おはよう」と言い合っているところを見ると、みな顔見知りと思われる。コートの下にのぞく制服はみなマチマチなので、私服通学のように見える。

 一時的に活気づいた車内であるが、天塩中川でいっきに14人が下車し、またも車内の景色が涼やかになる。

 佐久駅では、立派な駅舎が出迎える。よく見ると、「佐久ふるさと伝承館」の文字が見える。再び乗客があり、そこそこの恰好がつくようになる。発車すると天塩川がすぐ脇にすり寄ってきて、山が迫ってくる。もとより、そう急でもない天塩山地のこと、さほどの断崖があるわけでもないけれど、「谷と谷との間に川が流れる」ことがビジュアルで理解できる、そんな景色が広がる。そして、谷とか川とかいった区別なしにすべてを包み込んでしまうのが、ほかならぬ雪。その雪を切り裂くようにして、うにゅうにゅと天塩川が蛇行している。ところどころに小さな三日月湖があるものの、水面が氷結した上に雪が積もっており、形状を認識するにはいたらない。

 8時59分、音威子府に到着。乗客がかなり入れ替わる。ここで11分停車するので、いったん駅の外に出て身体をほぐすことにする。この駅は、もともと天北線との分岐駅ということもあり、「鉄道の町」といった色彩が濃い。現在もかなりのJR職員がいるようで、駅の南側には「JR」のロゴをつけたアパートが数棟建っている。また、この駅で長時間停車する列車も非常に多い。

 改札を出るとき、今回の最長片道切符に、初めて途中下車印が捺される。昨日、改札脇のカウンターでそばを食べたのだが、カウンターはまだ閉まっていた。

 ここで、列車の写真を撮る。「最長片道切符の旅」の第一列車であるから、これはきちんと撮っておかなくてはいけない。

 暖気にずっと触れていた、というより包まれていたせいか、気温は相当低いにも関わらず、冷気がむしろ心地よく感じられる。ホームには屋根などなく、雪がもっこり積もっているが、その上に足を載せると、きゅっ、きゅっ、と、いい音がする。ふぅっ、と吐く息が白くなるのが、何となく楽しい。そんな、本当にたわいもない動作ひとつひとつが、何だかこのうえなく貴重なことのように思える。童心に帰る、という言葉は、こんなときに使うのかも知れない。

 音威子府を発車すると、カーブが緩やかになる。地図を開くと、ほぼ真南へとまっすぐの線が引かれているのが見える。実際には細かいカーブがあるが、地形が穏やかになったのは間違いない。

 天塩川温泉駅に停車。見ると、そのホームは列車1両分もなく、最前部のドアと少し、という程度のスペースで納まってしまっている。駅からだいぶん離れたところに、屋根の大きな建物が見えたが、あれが温泉旅館だろうか。

 恩根内あたりから、窓ガラスが曇ってくる。見にくくなってきた車窓に映るのは、延々と続く樹氷の列、無表情に延びている天塩川、そして横殴りに吹き付ける粉雪。いつの間にか、吹雪によって霞んできた景色は、窓を通して切り取られた別世界となっている。現実感なき風景が目の前にあり、しかし、それが現実であるということに、頭がついていかず、現実を仮想的に見ている自分に気付く。「感嘆」という、ごく普通の反応をいずこかに置き忘れている感性の摩耗を、こんなところで再確認してしまう。

 美深駅でも数分の停車時間があるので、この間に駅の外に出ることにする。この駅は、稚内、南稚内、音威子府に続く、4駅目の有人駅である。昨日下車している音威子府とは異なり、この美深は初の下車となる。改札に切符を差し出すが、途中下車印はないとのことで、変わりに入鋏用のスタンプを捺される。

 外に出て駅舎を見ると、その建物の上に時計塔があり、「美幸の塔」とある。この美深からは、美幸線というローカル線が出ていたので、その記憶を残しておこうと付けられたネーミングであろう。美深から仁宇府(にうぷ)へ走っていた美幸線は、100円の収入を得るために3,859円の支出が必要(1974年度)というすさまじい収支状況から「日本一の赤字ローカル線」と呼ばれていたが、美深町がローカル線振興に対して積極的な取り組みを展開し、これが全国的に注目を浴びることとなった。もっとも、どんなに頑張ったところで、収支の改善が期待できるような路線ではなく、1985年9月には廃止されてしまったが、「赤字ローカル線」の代表格としてその名を広く知らしめた「美幸線」の名は、ここではまだ残っているのだろう。

 美深は、畑作や酪農が行われているが、日本における米作の北限でもある。これだけ雪が深いと、どれが畑でどれが水田かなどわかる由もないが、「水田がある」というだけで、「自分が住んでいる町に近づいた」という気になるから、不思議なものだ。

 いつしか、かなりの乗客となり、ほぼすべてのボックスに人が乗るようになった。

 発車後、後ろに座っているおっさんが煙草を吸い始める。煙草を吸わない人間にとっては気持ちが良くないが、禁煙車ではないから文句も言えない。デッキへ移り、運転席の脇で前方の光景を眺める。

 「北星」という、堂々たる名を冠する駅がある。東北新幹線が開業する前、上野―盛岡を走っていた寝台特急の名称に使われた経歴のある、地味で静かな一方、厳かさをも含みもつ名前。個人的には大好きなのだが、札幌ブルトレの愛称には「北斗星」が定着しており、これとの混同を避けるためにも、復活することはまずないだろう。そんなことを思いながら迎えた北星駅はというと、短いホームがあるだけの寂しい駅で、乗降客もいなかった。

 智東という駅を通過する。この駅に停車する列車はもともと非常に少ないのだが、時刻表を見ると、それらの列車はいずれも「12月1日→2月29日は智東通過」とある。この駅が「臨時乗降場」として扱われているのも納得できるが、そんな駅をいったい誰が利用するのか、そもそもどうして駅として残しているのか、実に不思議だ。

 列車は、時速70km以上というスピードで快走していく。車内も、駅ごとに乗り込む客のために、いつしか各ボックスに2~3人という乗車率となる。席に戻ると、列車の上を何かが横切る。見ると、跨線橋である。こんなものは、ごく一部の主要駅構内以外では皆無だっただけに、強烈なアクセントになる。

 ここまで来ると、名寄はもう近い。隣の爺様が、口をクチャクチャと動かしている。車内には親子連れもおり、「もっと乗っていたいよ」という子供に対し、親は「もう降りるんだよ」という。

 街が近づくにつれ、しだいに晴れてくる。すっかり吹雪もやんだ名寄駅に着いたディーゼルカーが、ドアをのっそりと開けたのは、10時16分であった。

 名寄では3分の接続と、待たずに乗り継げる。ここから乗る10時19分発の快速「なよろ6号」は、2両編成で、向かい側のホームに停まっていた。

 名寄と旭川との間は、途中に分水嶺をはさんでいるにも関わらず、かなりの往来がある。快速列車5往復をはじめ、多くの列車が設定されている。これまでの純然たるローカル線から、亜幹線的な色合いを帯びてくる。もっとも、その輸送を担う我が快速列車は、ワンマン運転なのであるが。

 整然と区画された耕地は、人の手が入念に入っていることを実感させる。これまでの「北の大地」とは明らかに違う。気温で見れば、盆地にある名寄は日本有数の厳寒地であり、海の近い天塩平野よりもずっと寒いのだが、そんなことは関係なく、「人がいる」ことがハッキリわかるだけで、寒々しさがまったく違ってくる。

 雪原を走ることには変わりないけれど、一定の間隔を置いて、人家が確実に存在している。ここまでの区間を通じて、目に入るのは樹と川と山だけという光景に目が慣れてしまったため、人口密度が非常に高いように感じる。強く刺すような日差しが目に入る。

 士別に近づくと、急に雲が出てきて、一気に横殴りの雪となる。これだから、北海道内陸部の天気は怖い。

 士別駅は、横長のしっかりした駅舎を持つ有人駅だった。わが快速は駅舎本屋前ホームに停車する。窓の前には、ホームの壁面に取り付けられた、行灯型(プラスチックケースの中に蛍光灯が入るタイプ)の駅名標が見える。これまでの「何もない」に慣れてきた目には、これが「都会の象徴」のように映る。相当の乗客がある一方で、下車はほとんどない。駅には「サフォークの街 士別」とある。サフォークとは綿羊の一種で、士別市の産業振興策の中心に据えられているのがサフォークの牧業なのである。

 樹林の合間に人家があると、その近くでは、たいてい踏切が鳴っている。いくつかの踏切の脇には、踏切小屋が残っていた。職員が常駐している踏切など、もはやほとんど残っていないものだが、こういった建物が今もあること自体が不思議だ。

 植林中の小さなマツに雪が積もっている。雪だるまや丹頂鶴のような恰好に見える。

 和寒で、特急の試運転車と行き違いとなる。翌2000年3月のダイヤ改正で、この宗谷本線に走る4急行「宗谷」「サロベツ」「礼文」「利尻」が、スピードアップとともに特急化されることになっているので、その訓練であろう。そういえば、これまでの各駅でも、「祝-特急」というのぼりをあちこちで見掛けた。急行のままの方が料金は安いけれど、札幌・稚内間で最大50分以上の短縮となるのであれば、歓迎が先に立つのだろう。あるいは、特急というステータスが、これまで特急の空白地域であった宗谷本線沿線では、まだまだ高いのかもしれない。

 三浦綾子の小説『塩狩峠』で有名となった分水嶺、塩狩には、多くの保線係が待機していた。この環境での保守作業は大変であろうが、どう大変であるか、具体的に想像することはできない。

 テレビコマーシャルで一世を風靡した比布(ぴっぷ)で、かなりの乗車がある。軒から下がるツララは鋸歯状をしており、その長さは2メートル近くあるようだ。落ちてきたら、あらゆるものを貫通しそうであり、半自然の凶器だな、と思う。停車時間は比較的長く、乗客がぱらぱらと乗ってくる。

 石狩川を渡る。天塩川とは異なり、幅広い流域面積を誇る堂々とした川だが、このあたりではまだまだ幅狭だ。ここからはずっと平地に入り、水田と思われる中を進む。人家がぐっと増えていき、本格的な「都市」が近いことを物語る。

 官公庁が多い永山で、10人近くが乗り込む。雪の流れはさらに強くなってくる。太陽は雲に隠れ、薄日が何とかのぞいているという状態。すでにこのあたりは旭川市の市街地といえる。

 2組の親子連れがいる。親どうしがぺちゃくちゃお喋りしていると、子供は退屈で仕方ないようで、車内をどたどた駆け回ったり、窓のブラインドをビョンビョンと上げ下げしたりしている。親は、時折思い出したように、怒られるからやめなさい、と言っているが、どうして怒られるのかという理由なしに叱っても仕方あるまい。第一、「怒る」の主語の中に、その親本人は含まれていないように聞こえる。さすれば、マナーといったところで、その親にとっては「理不尽なことで因縁つける人間から身を守る処世術」といった程度のものでしかないのだろう。親どうしが子供をかまうことなく自分達の世界に没入しながら、こんなことを言っていては困る。一声かけようかとも思うが、つい先日、似たようなことを注意してトラブルになったことを思い出し、ここは自重する。

 左手に、いくつもの煙突から、煙がもうもうと立ちのぼっている。製紙工場だろうか。このあたりにくると、工場というものを見てもさほど動じなくなってくる。感覚が、すっかり都市に順応したらしい。

 駅舎には人の気配が感じられない新旭川で、行き違いのために停車するが、ドア開閉は行わない。こういう扱いを「運転停車」というが、実に妙な言葉ではある。急行ならともかく快速なのだから、客扱いしてもよさそうなものだが。ここは石北本線との分岐駅であり、「最長片道」の経路を厳密にたどろうとすれば、ここで降りる必要があるけれど、停まらない以上しかたがないので、終点の旭川まで行くことになる。

 正午近くになり、さすがに空腹となる。考えてみれば、ちょっとしたものをつまんだだけで、食事と呼べるものは摂っていないのだ。旭川で何か食べよう、と思う。牛朱別川を渡ると、一気に事務所や工場、マンションの建ち並ぶ都市へと入り、高架の上を走る。

 旭川到着、11時47分。大都会に来たような感覚になる。

 この先、今日の予定では網走まで行くことになっているが、旭川から網走へといたる石北本線との接続は、あまりかんばしいものではない。北見行きの特別快速「きたみ」の発車時刻は15時8分であり、3時間以上の間が空いている。それまで旭川の街を歩くという手もあるが、昨日も下車したばかりだし、明日はここに宿を取るのだから、旭川ばかりにいても仕方がない。一個所に留まらないとなれば、区間列車にでも乗って、少しずつ匍匐前進するのがよい。そんなしだいで、12時10分発の普通列車に乗り込む。予想通りの単行ワンマンカーである。

 空腹なので、駅弁「けっかめし」と、ビールを購入。ホタテが載ったおこわで、なかなかおいしいが、昨日食べた「わっぱ」の方が、ボリューム的には上だったと思う。

 各ボックスに2~3人程度を乗せて発車。次の高架駅、旭川四条で、さらに10人ぐらいが乗ってくる。このあたりは旭川市の中心に近い。

 新旭川で宗谷本線と別れ、少し南へとルートを変える。

 東旭川で、かなりの乗客が降りる。旭川市の郊外で、工場が隣接していたが、人家は駅から離れているように見える。これから農地が続き、ビニールの貼られていない、骨だけのビニールハウスが目立つ。雪の時期になったら、ビニールを取り外すのである。少し離れた先の方には山々が見える。

 「時間つぶし」のための下車駅として、当麻で降りることにする。

 駅が近づくと、運賃・きっぷは、運転士にお見せください、というテープ放送が流れる。当麻クラスの駅でも無人駅なのか、と思う。北海道は四国あたりに比べると、まだ駅員配置駅が多いという印象があったのだが、中規模以下の駅の無人化は、着実に進行しているようだ。

 当麻駅到着、12時39分。がらんとした鉄筋コンクリートの駅舎は、ひどく寂しげであった。

 当麻駅で降りると、雪がかなり降っている。しかし、水分をあまり含んでいないため、さほど気にせずとも大丈夫だろう、と判断し、外を歩くことにする。次の発車時刻は14時9分と、時間はたっぷりある。どんな街かは知らないが、迷わない程度にめぐってみることにする。

 ひとまずの目標は、郵便局である。

 私は、郵便局があると、そこで貯金をし、局名の入ったゴム印を捺してもらうということをやっている。「旅行貯金」と呼ばれることも多い。また、局に備え付けてあれば、風景印(風景入通信日付印)を捺してもらう。このために、エコーはがき(広告入りはがき。1枚45円)を持ち歩いている。こういった郵便局めぐり――「局めぐ」と略されることが多い――自体の意義はともかく、こういった目標を据えることで、その街を積極的に歩こうという気になるのだから、実に不思議だ。目的地なしに足を動かそうとするには、限界があるのかもしれない。

 全国各地の郵便局を回りきるような根性は私にはないけれど、なるたけ数を増やそう、というくらいの気にはなっている。そんなわけで、新規下車駅で真っ先に探すのが、郵便局というわけだ。

 駅周辺には、周辺の案内地図などというものは存在していない。観光客が下車するような駅ではないのだろう。

 とりあえず、勘を頼りにひたすら歩くが、行けども行けども、それらしき建物が見当たらない。しかも、雪が横殴りにたたきつけてくる。サングラスをかけているにもかかわらず、なかなか目を開けていられない。15分くらい歩いて、ふとあたりを見渡すと、もはや周囲には誰もおらず、人家こそ点在しているものの人気はまったくない。

 遭難などしてはたまらないので、もとの道をそのまま戻り、駅前にあるAコープに入り、レジにいたおばちゃんにたずねると、わざわざ表に出て、道を教えてくれた。何とも恐縮のかぎりである。

 教えられたとおりに道を進むと、駅の方向へと歩いている婆様に道を聞かれる。何条の何と聞かれても、地元の人間でないので答えようがない。それにしても、私の風体は、大きなリュックを背負いカメラバッグを左肩で支えているというもの。こういった重装備であっても地元の人間と思われるという例は、これまでにも何度もあったのだが、私は地元に溶け込みやすいタイプなのだろうか。言葉を交わせば余所者ということはすぐにわかるのだけれど、よそ者扱いされないともいえるわけで、トクといえばトクではある。

 駅前通りを真っ直ぐ進み、突き当たりを右に曲がる。雪の激しさは相変わらず。雪がうずたかく積もっているが、歩道は人が通った痕跡があり、まともに歩くことができる。とにかく視界が悪く、飛び出してくる車などと鉢合わせしたら対処のしようがない。ゆっくりと歩を進める。

 当麻郵便局にやっと到着。暖房の効いた局内は、別世界のようであった。

 旅行貯金と風景印押印の後、しばらく雪が小降りになるのを待っていたが、雪の勢いが衰える気配はまったく感じられない。どうしようもないので、20分程度局内に待機してから、外へ飛び出る。

 街の風景をじっくりと見るというわけにもいかず、とにかく歩く。脇を自動車が走り抜ける。冬の北海道を感じるのは、こういった「どうしようもない環境」の中を、身ひとつで進むことなのではないか、それならこれはこれでまた一興、などと、なかば自虐的に思ったりする。実際、「最長片道切符の旅」の中で、本格的に雪が降る中を歩いたのは、後にも先にもこのときだけであり、後から振り返ると、いい経験だったのではあるが。

 当麻駅に戻ると、まだ30分以上ある。すっかり身体が冷えてしまったので、自販機のココアを飲む。今回の旅行では水筒を持ってこなかったが、途中、中継基地としている小樽の親戚宅宛に、宅配便で着替えなどとともに配送してもらうことにしてある。ふー、ふー、と、息を吹きかけながら喉の奥へと押しやられる液体がもたらす感覚に、自分の生体活動が滞りなく行われていることを感じる。

 完全な無人駅かと思っていたら、おばちゃんが1人、駅事務室へと入っていくのが見えた。ほどなくして駅窓口のカーテンが開かれる。時間単位で、開けたり閉めたりしている、簡易委託のようだ。改札前のストーブ脇では、地元のおじちゃんが「今月に入って(雪が)ずーっと降ってる」と話している。こんな雪が毎日降れば、すっぽりと積もるのも道理である。

 当麻を14時9分に発車した上川行きの列車は、例によって、単行のワンマン運転である。1つのボックスに2人程度の入りだった。

 だんだん暗くなってくる窓の外には、時おり農家が点在している。人家のあるなしだけで、こうも「風景」とは変わるものか、と、ついさっきまでの宗谷本線を思い出す。

 愛別で、高校生が多く乗り込んでくる。このあたりから、南側に山が迫ってくる。南側の石狩山地には、石狩山や大雪山といった山々が連なっているが、雲が低く垂れ込めていて、頂のことはよく見えない。

 進んでいくごとに、谷の幅がしだいに狭まっていく。それに従って、線路の上り勾配が急になる。ディーゼルカーのあえぎ声が高くなる。

 木材が雪を被った状態でごろごろと転がっている。切り出した木材であろう。用途はわからないけれど、春まであのままにしておいて大丈夫なのだろうか、と思う。

 上川到着は14時54分。北海の空は、すでに夕方に突入していた。

 上川での待ち時間は1時間弱。これでは、層雲峡だの何だのに行くことはとても無理なので、当麻に引き続き、郵便局へ向かうことにする。幸い雪はやんでいるし、この上川での積雪は、さほど多くはなさそうだ。

 上川駅前には地図があったので、町を走る道筋を最初に確認する。郵便局以外の場所にもいろいろと目を向けてみると、スキーの原田選手が、ここ上川町の出身だという。だからどうということもないが、シーズンオフでもそれなりに観光客があるようで、駅前にはタクシーが常駐していた。

 駅から歩いて2分ほどの郵便局で、旅行貯金と風景印押印とを済ませる。局内にインターネット端末が置かれていたため、行きつけのWebサイトなどをひととおり見る。文字入力ができるのはURLアドレスだけだったので、掲示板への書き込みなどができなかいのは残念だったが、それでもあちこちのWebサイトを見てみると、専用線なのだろうか、画面表示が速い。33.6Kbpsのアナログモデム接続に慣れているため、一瞬で表示されるようにさえ見える。この端末前で、30分くらいは時間をつぶす。ほとんどほかの客はいなかったから、独り占めといっても問題はないけれど、ちょっと恥ずかしかったのは確か。そそくさと郵便局をあとにする。

 上川駅を15時51分に発車した特別快速「きたみ」は、なんと、単行ワンマンだった。都市間連絡快速列車としてみれば、宗谷本線の「なよろ」もワンマンだったし、さして驚くことではないのかもしれないが、走行距離も長いし、てっきり2両以上のツーマン運転だと思いこんでいただけに、意外であった。

 しかし、この「きたみ」、乗ってみると非常に不快。北海道内ではいろいろな列車に乗ったが、この列車は、私的ワースト2となった。シート自体はリクライニングシートであり、それなりの座り心地でもあるし、かなり混んでいながら一応は席を確保できたので、よしとできよう。しかし、上川から留辺蘂までは喫煙区間となっているため、あちこちで紫煙がたなびく。エアコンなどついているはずもなく、窓を開けるわけにもいかない(席が通路側でなく窓側だったとしても、である)。結果として、もうもうとした空気が車内に立ちこめるので、しだいに喉が痛くなってきた。時折、逃げ出すようにデッキに出、しばらくして戻り、を繰り返す。

 シートは、列車の前半分は後ろ向き、後ろ半分は前向きとなっており、前後の境目部分にはテーブルがセットされていた。おそらく、この「きたみ」専用車両なのであろう。

 外が暗くなってくる。相当な急勾配が続き、ディーゼルカーは高いうなり声を出して登る。石北本線のこの部分がネックとなっているのも、よくわかる話である。

 石北トンネルに入っても、なお勾配は続く。分水嶺を過ぎると、今度は急坂になるため、減速する。とにかく、走りにくそうだ。

 人跡の極めて稀なる地域ゆえ、普通列車がほとんどないのも、車窓を見れば当然のように見える。なにせ、鉄道施設以外に、人工物と推測されるものが見当たらないのである。

 奥白滝駅で、上り特急列車と行き違いのため、運転停車する。空気の悪い車内にいたくないので、本当は外に出たいのだが、「運転」停車だから、ドアは開かない。デッキから外を見てみるが、周囲には見事に何もない。駅待合室にともっているストーブの灯だけが、いやに目立つ。

 上川を出てから初めての停車駅、白滝で1人が降りる。寂しい無人駅だが、少し離れているところに人家が点在しているようだ。照らし出される駅名標の文字だけが、いかにも寒そうに、その存在を見せている。すでに外は暗く溶けつつあり、景色を“楽しむ”という状態ではなくなってくる。

 遠軽では、列車の進行方向が変わるため、5分間停車する。これ幸いと、ホームに出て、すっかり冷えた空気を、思い切り吸い込む。身体は暖房をたっぷり受けて温まっているから、身体がビッと締まるが、その刺激がむしろ心地よい。さらに、淀みのない鮮なる気が肺に入るのが、よくわかる。ここまで、駅ごとに乗車があるので、大半の座席が埋まっているうえ、煙草の臭いが染みついているのだ。ついでに、ホームの自販機で冷たいソフトドリンクを買う。車内にも自販機はあるのだが、どうせなら外で行動したい。

 ここからは、後ろ向きに進むことになる。しばらくの間、遠軽の街の灯が見え、なんとも眩しく感じる。しかし、この灯が過ぎ去ると、もはや景色というものには期待できないので、持参のMDプレーヤを取り出し、音楽を聴くことにする。視覚と聴覚とはリンクしないのだが、いい景色を見るときには、耳を塞ぎたくないので、たいてい「暗くなってから音楽」となっている。

 並行道路を走る車が、当方をどんどん追い抜いていく。このディーゼルカーのパワーでは、車に対抗できるほどのスピードが出ないのか、はたまた燃費が悪いのか。

 生田原で、まとまった人数が下車。かなり大きい駅で、大規模な施設も揃っている。ここからは各駅停車となるが、駅に停まっても乗降ともにゼロという駅がままある。

 ホームに屋根のある堂々たる駅、留辺蘂に到着。ここから再び禁煙区間となるが、いったん「喫煙」可となった後に再び禁煙としても、空気が悪い状態に変わりはない。キセル喫煙方式というものは、何とかしてもらえないだろうか。あるいは、単行運転の場合、自動的に禁煙にするとか、方策はあると思うのだが。

 これ以降、高校生の乗車が目立つ。多くは車端部やデッキに固まっている。すでに都市間高速列車の趣は消え、通学列車と化していく。

 北見に到着したのは、18時26分。ここでの接続はきわどいので、到着前に荷物を背負い、スタンバイモードに入る。列車が止まるや、すぐに乗り換えとなる。

 いったん勘違いして跨線橋を上がりかけたが、乗り換え列車は、反対側ホームに停まっていた。定刻では26分発車だったが、接続列車である「きたみ」からの乗り継ぎ客をすべて乗せて、18時28分に発車。例によって単行ワンマンであるが、禁煙である。何よりも、これが嬉しい。

 立ち客も非常に多いが、荷物を堂々と座席に置く人がけっこういる。近距離客が多いことを示している。

 高架線の上を走っても、家々の灯が点々とついているのを見ると、北見市がこの地方における「大都会」と呼んでも差し支えない立場を保っていることを実感する。石北峠を越えてきた目には、「世界が違う」という印象を受ける。都市の規模を大きく感じるのは、昼間よりも夜であることを、あらためて感じる。人口10万強程度の街だが、昼間通ってきた旭川以上の存在感を感じる。

 北見は、戦時中に市制を施行した都市で、もとはハッカの街として有名だったが、現在はタマネギの一大産地となっている。市内には「北見ハッカ記念館」なる施設があるそうだが、まだ行ってはいない。途中下車したことはあるが、さほど時間もなかったので、郵便局に行っただけである。今度来ることがあれば、一度行ってみるのもよいかとも思う。網走市内はそれなりに歩いているのだが、こちらはほったらかしなのだ。

 次の柏陽でそこそこの下車があるが、ほぼ同じ数が乗ってくるため、車内の状況はほとんど変わらない。乗客の多くは高校生なので、立つのであれば立ち、座るのであれば座り、と、みな同じ行動を取っている。空席が1つできたからといって、1人だけ座るということはしない。この結果、通路いっぱいに高校生がひしめきあうこととなる。

 この混雑が解消されるのは、美幌に到着したときである。高校生たちの大部分が降り、車内が一気に空く。残ったのは、わずか16人となる。さらに、女満別で、残った高校生も大半が降りてしまう。後には、用務客や地元の若者がパラパラと座っているのみ。もはや平地であり、ディーゼルカーは右に左にとカーブしながら、淡々と進む。

 終点、網走着、19時28分。市街地から大きく離れていることもあって、北見のような「都会」という印象はまるでない、静かな駅である。

 今日の宿は、駅前のビジネスホテルをあらかじめ予約しておいたので、安心である。

 それにしても、駅を降りて足を踏み出すと、つるんつるん、よく滑ること滑ること。さすがに転ぶことはないけれど、重心を移すタイミングに戸惑う。積雪は大したことないのだが、雪があまり降らないままに凍ってしまい、カチンカチンの氷がアスファルト一面に敷き詰められているようだ。見ると、さほど多くはない地元の人も結構ツルツル滑る氷に難儀しているようだが、慌てずに体勢を立て直している。これが、不慣れな者との違いなのだろうな、と思う。

 昨日と違い、取りあえず寝るだけにする。ホテル向かいの酒屋で酒を買い込み、手酌で飲み、そのまま寝てしまう。

 明朝の列車は、網走発6時44分。腕時計のセッティングをしようとすると、どうも反応が鈍い。そろそろ電池切れのようだ。使い捨て覚悟で購入した安物なので、帰宅したら新しいのを買わないといけないな、と思う。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
1st稚内641→名寄10164326D
2nd名寄1019→旭川11473324D(快速・なよろ6号)
3rd旭川1210→当麻12394525D
4th当麻1409→上川14544527D
5th上川1551→北見18263583D(特快・きたみ)
6th北見1828→網走19284673D
乗降駅一覧
(稚内、)音威子府、美深[NEW]、当麻[NEW]、上川、網走
[NEW]を付しているのは、この日にはじめて乗り降りした駅です。
訪問郵便局一覧
当麻郵便局、上川郵便局

2000年1月5日
2004年12月23日、修正

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