第18日(2000年1月15日)

紀伊田辺-和歌山-高田-奈良-天王寺

 早暁4時45分に床を出る。冷え込みがぐっと厳しくなる時間帯のはずだが、ずいぶん暖かいと感じる。やはり寒暖の感覚がどこかずれてきているのだろうと思い、苦笑が漏れる。

 まだ他の人が寝静まっているユースホステルを出ると、どこからか寺の鐘の音が、ゴーン、と響く。

 紀伊田辺6時34分発の列車は113系4連で、幸いなことにセミクロス車であった。土曜日の早朝ということもあって、車内は2~3ボックスに1人程度である。まだ外は真っ暗であり、何も見えない。本当は夕方にこの区間に乗れば、夕陽が海を照らして何ともいえない風景が見られるのであるが。

 南部あたりで、なんとか外がぼんやりと見え始める。砂浜に岩がゴロゴロ転がっている。

 印南には、なぜか駅北側に巨大なカエルの橋があった。いったいどういう意味が込められているのだろうか。

 まだ寝が足りなかったのか、暖かい車内で、しばらくうとうとする。気がつくと、安珍清姫で名高い道成寺を過ぎていた。

 紀州鉄道線が分岐する御坊で、乗客の大部分が入れ替わる。すでに外は十分に明るく、家々の屋根がくっきり見える。センター試験用の問題集を広げる受験生もおり、もうそんな季節なんだな、と思う。ここからは主要駅のみに停車する「快速」となる。

 家々の軒先には大根が下がっている。宮脇氏の「最長片道切符の旅」では、日本中どこにいっても柿と大根が見えたとあったが、私の目にはそこまでの頻度では見えない。季節の差か、時代の差か、はたまた観察眼の差なのか。

 藤並からかなりの高校生が乗り込む。学生服とセーラー服がホームを埋めつくしている。ここからは有田鉄道のレールバスが1日5往復、金屋口まで走っている。どう見ても採算がとれているとは思えず、オーナーの意地でもっている観さえある。こちら方面へ出向いたときは必ずといっていいほど乗っていたのだが、今回はそういう余裕はなく、通り過ぎる。

 トンネルを過ぎると、左手に石油化学工場がずらりと並ぶ。有馬皇子の風情のカケラもない風景が続くが、段々になっている茶畑が目を和ませてくれる。工場が途切れると、もともと海に面したところを走っていることにかわりはないので、再び眺望が開ける。

 高架をゆるやかに登り、海南に到着する。ここでかなりの高校生が下車するが、まだ席の大半が埋まっている。以前接続していた野上電気鉄道(日方-登山口。1994年3月31日廃止)の痕跡はきれいさっぱりなくなっていた。かつて、JRのホームと構内踏切で行き来した記憶がぼんやりと頭によぎる。

 紀三井寺付近で何らかの案内放送があるが、またもうとうとしており、耳に届かない。

 和歌山には、8時9分に到着。ラッシュのまっただ中であるが、やはり大都市圏とは違うのか、人の動きはしごくゆったりしたものであった。

 和歌山からは、8時22分の和歌山線電車に乗り、高田から桜井線経由で奈良まで行くルートとなる。通常和歌山から奈良へ行くのであれば、天王寺周りの方がずっと早く着くうえに本数も多いので、こういう経路をたどるのは、「そのルートで乗る」ことが目的となっている人だけといってよかろう。以前はこのルートを直通する急行列車が走っており、宮脇俊三氏は敢えてこの列車を選んだというが、あいにく今は、こういった都心部をわざわざ避けて走るような奇特な急行列車はない。それでも、8時22分発の列車は、そのまま奈良まで直通するので、「最長片道」人間にとってはまことに好都合だ。こういう列車がある以上、それに敬意を表するのが趣味人としてのマナーであろう。

 そういう理由になってない理屈をつけて乗り込んだ列車は、105系ワンマン対応の2連ツーマン車両であった。105系であるから、当然のようにロングシートである。けだるく日差しをあびてとろとろしながら進む和歌山線こそ、ボックスシート車がお似合いだと思うのだが、こればかりは致し方あるまい。

 ほぼ全席が埋まった状態で、列車は和歌山駅を定刻に発車する。右へすぐカーブ。側線が大きく広がっており、なんだか車庫の間をすり抜けて進んでいくような気がする。乗客には高校生も若干いるが、おっさん、おばさんのほうが多い。

 田園地帯をひたすら進み、最初の停車駅、田井ノ瀬に着く。ここでいきなり対向列車と行き違いとなる。女子高生3人ほどが、「あー、もう出るー」と叫びながら全力疾走しているのが見えるが、それから5秒とたたないうちに対向列車は発車してしまった。対向列車に乗るには駅本屋から跨線橋を昇って反対側ホームへ行かないと無理だし、あのまま遅刻だろうか。

 一面に畑が広がる中、雲一つない青い空の下、我が列車はやたらと甲高いモーター音を奏でながら、ゆうらりゆうらりと進む。

 一面一線の紀伊小倉で、ほぼすべての高校生を含むかなりの乗客が下車する。もともと物があまり多く置かれてはいないので、ホームに設置されている自販機が妙に目立つ。高校生が消えた車内は一気に静まりかえってしまうが、車掌が集札に忙しいのは相変わらずだ。この時点で、シート1列に3~4人程度の入りとなる。

 船戸で交換するが、ここで行き違う対向列車は、なんと湘南色の113系であった。和歌山線で湘南色電車が走っているのは初めて見るので驚いたが、こちらがロングシートであると思うと、どうにも面白くない。

 打出あたりから次第に荒れ地が広がり始める。

 粉河寺への参拝拠点となる粉河を過ぎ、名平で4分停車。有人駅なので下車は差し控えるが、ホームにいったん降りて体を動かす。ずっと座りっぱなしでは、どうにも関節が固まってしまうような気がしていけない。西傘田から、紀ノ川に沿って走る。

 妙寺は2面3線の駅であり、ここで交換する。駅周辺には工場が多く、駅の南西には煙をもくもくと吐く工場もあった。このあたりから次第に川と山との距離が縮まってきて、切り通しに面してつくられている駅などもちらほら出てくる。紀伊山田と橋本との間で検札があるが、チラと切符を見ただけでおしまいであった。

 南海高野線の乗換駅である橋本で、車内の乗客の8割が下車する。連絡改札自体はフリーで行き来できるようだが、関西地方のストアードフェアシステム「スルッとKANSAI」対応改札機が設置されている。乗ってくる客もそこそこ多いが、それでもロングシート1列に3人程度と、すいていることに変わりはない。開いたドアから吹き込む風が、どうにも冷たく感じられる。

 隅田(すだ)は交換可能だが無人駅。ここから切り通しを抜け、右手に高野山を一望できる。

 民家が密集するようになると大和二見。五條の街がすぐ近くになってくる。

 五条からワンマン扱いになる。そこそこ降りるが、それ以上にかなりの乗車があり、立ち客が出るまでになる。本屋側ホームに停車する。この停車位置は紛らわしいことこの上なく、実際十年ほど前、五条駅から反対方向の列車に乗りこんでしまい、しかたなく大和二見で折り返したことを思い出した。

 ここから、線路の両側ともに山が迫ってくるようになり、平地を進む感じではなくなり、じりじりと坂を進んでいく。

 近鉄吉野線と接続する吉野口でそこそこ下車する。このあたりは、丘陵地帯を進んでいる感じだ。集落よりも高いところを走る。

 次第に下り坂となり、再び平地が開ける。塀に囲まれた、いかにも日本的という雰囲気が濃厚な民家が目にはいると、掖上。真っ平らな田園地帯を進む。

 御所は思ったよりシンプルな駅であった。こんな簡素な駅だったか、と思う。窓の外には瓦屋根のしっかりした家が多く目立つ。

 吉野口の手前あたりから尿意を催し、困惑する。この列車には便所はない。幸い、高田で6分停車したため、ここで用を足すことができた。何度が乗り降りしたこともあり、勝手を知っている駅だったために事なきを得たが、初めての駅だったら右往左往していたかもしれない。ここで王寺方面からの列車と接続するため、さらに車内は混雑し、立ち客もいっそう増えて車内はいっぱいになる。

 高田から進行方向を変え、桜井線に入る。畝傍、桜井、天理と、大和盆地をぐるっとまわって走る路線であるが、遺跡の間を縫って走るような路線であるともいえる。

 駅前に高層マンションが林立している中を、のろのろと発車する。この区間はワンマン運転ではないようだ。築堤を上る。人家と田畑の中に、ときおり郊外型ショッピングセンターがドンと立っていたりする。

 「サティ」を筆頭に多くのビルが見えるようになると、畝傍に到着する。ここでの下車は意外に少なく、むしろ乗車のほうが多い。風格のある駅舎と静かな駅前は相変わらずのようだ。

 香具山は1面1線の小駅だが、二重の屋根を持つ重厚な駅舎が迎える。立っている客の相当数が婆さんである。飛鳥地方にある数々の丘陵が、くっきりと晴れた空に浮かび上がる。

 町中にはいり、桜井は2面3線の地平駅。ここで連絡する近鉄線は高架になっている。ここでかなり多くの乗客がおり、車内は一気に満員になる。破魔矢を持つ人が多いことから、三輪駅にほど近い大神神社で何かあるのかもしれない。増結しても良さそうなものだが、と思えるほどの混雑ぶりである。

 左へ急カーブし、再び田園地帯にはいる。三輪で交換する。予想したとおり、ここで大半の乗客が下車する。大鳥居を横目で眺め、日本最古級の古墳である箸墓の脇を過ぎる。窓の外にはビニルハウスや溜め池、そして畑が続く。

 長柄で、それまで乗っていた高校生が下車する。もとは交換可能駅だったようだが、現在は対向ホームの跡は駐車場となっている。

 坂を上り高架にはいると、天理の市街が見える。あちこちに天理教の詰め所が散在している。高架駅の天理で下車する人はさすがに多いが、ほぼ同数の人が乗り込んでくる。

 京終は、地下道を通って対向ホームに移動する構造となっている。都市部の駅や中規模以上の駅では別に珍しくもないが、このクラスの駅では、当初は構内踏切、後に跨線橋での移動が多いだけに、ずいぶんと目を引く。ここでもかなりの乗客があった。

 終点・奈良には、11時5分に到着。ロングシート車に席を占めること2時間43分であった。

 奈良からは、関西本線に乗り換えて天王寺へと進む。もう何回乗ったかわからない路線であるし、快速に乗ればすぐだ。

 駅西口には三井ガーデンホテルが建ち、長い跨線橋が完成していた。JR化後もずいぶん長いこと残されていた扇形の機関庫は、もはや跡形もなく消え去っていた。さらに、奈良駅の象徴ともいえる重厚な奈良駅舎も、新築に伴って解体は避けられない見込みで、なんとも寂しい気もする。もともと奈良への玄関口としては近鉄の方が中心であり、国鉄・JRは2番手に甘んじていたために開発が遅れていたという面があるだけに、今になって新しくなるのはJRが巻き返してきた証拠なのだろうが、それにしても寂しさはぬぐえない。

 奈良発11時21分の「大和路快速」は、220系の6連であった。発車した時点ではガラガラである。

 金魚を飼育している溜め池がいっぱい見えてくると、郡山。ホームで、三脚を構えた職員が待機していた。発車直後、車掌に対して何かサインを出していたが、車掌が列車から身を乗り出すシーンでも撮影していたのだろうか。

 近鉄線をアンダークロスすると、ひたすら単調な田園地帯をひた走る。大和小泉の駅左側では土地区画整理事業が進行中。現在は右側に割と古めの駅本屋があるのみだが、この駅もご多分に漏れず橋上化されるのだろうか。

 法隆寺を出て次第に家が建て込んでくると、王寺にすべり込む。近鉄田原本線との間に置かれているSLは健在。構内はかなり広い。駅前にはイズミヤがある。ここから乗り込む客がかなりあり、それまでは2列シートにそれぞれ1人ずつだった座席の大半が埋まる。

 川と平行し、駅を通過後、川を渡る。いくつかトンネルをくぐり、再び川を渡る、など、意外と変化が大きい。阪奈間連絡のライバル路線である近鉄線は長大トンネルで突っ切ってしまうが、関西本線は車窓に変化があって楽しい。その代わり、悪天候に対して弱いという問題ももちろんあるのであるが。左手に大きなロープウェイ架線柱跡のようなコンクリートブロックが建っていた。

 大阪府内に入ると、工場の軒先のようなところをどんどん進んでいく。このあたりは操車場があったりしたため、敷地がやたらと広く、現在もずいぶんゆとりがある。そのせいもあるのだろう、快速列車はずいぶんとすごいスピードを出す。駅名票の表示がまったく読みとれない。

 高架に入り、次第に高層建築が立ち並ぶ中に突っ込んでいくと、まもなく天王寺である。まだ日は高いが、今日の「最長片道切符の旅」は、この天王寺までである。

 天王寺からは、Webサイト「MIZUHAの憂鬱」の管理人であるみずは氏と落ち合い、日本橋を案内してもらう。日本橋を歩いたこと自体はあるのだが、なにぶん高校生のときだし、そのころはまだ純然たる「電気街」に過ぎず、PCだの何だのといったものはなかった。やはり10年もたってしまうと、ずいぶん変われば変わるものだなぁ、という言葉が素直に出てくる。いろいろと興味深い怪しげなところにも連れて行ってもらったりしたが、詳細については控えておく。

 難波でみずは氏と別れ、JR難波駅から天王寺を経由し、鶴ヶ丘に向かう。長居陸上競技場にあるユースホステルに宿泊することにしたためである。

 泊まってみると、おそらく場所柄のせいであろうが、合宿の運動部員ばかりで、純然たる旅行客にとってはどうにも肩身が狭いが、まあ致し方ない。外に出ようにも周りに何があるわけでもないので、さっさと寝てしまう。健康的な夜を過ごすことにはなった。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
130th紀伊田辺634→和歌山8093336M(快速)
131st和歌山822→奈良1105436M→538T
132nd奈良1121→天王寺11513369K(快速)
乗降駅一覧
(紀伊田辺、)天王寺

2002年5月2日
2007年2月21日、修正

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