第30日(2000年1月28日)

都城-吉松-隼人-鹿児島-鳥栖-肥前山口

 今日は、都城から吉都線を北上して吉松に出て、ここから肥薩線で南下、隼人で日豊本線に乗って鹿児島へ向かい、鹿児島本線を北上、鳥栖で長崎本線に…というルートになっている。南九州を回ってから西九州へ向かうわけだ。もっとも南九州といっても、国鉄末期に多くの路線が廃止されたため、ごく単純なルートとなってしまっているのが残念なところである。

 昨日は早く寝たので、すんなりと起きられると思ったのだが、目が覚めると時計は5時半を示している。さっさと着替えてホテルを出て、目の前にある駅へと向かう。

 都城駅の「みどりの窓口」がすでに開いていたので、明日帰宅するときに乗る寝台券を買おうとするが、駅員の作業がなかなかうまくいかない。経路が複雑な乗車券を頼んでいるわけではないのだが、パタパタとアルミ板を回転させる旧タイプの指定券発行機を使っているために、比較的新しい切符がなかなか発行できないらしい。そうこうしているうちに発車時刻が迫ってきたため、もういいです、と言って地下道をくぐる。

 5時53分発の、吉松経由隼人行きの列車は、キハ40系の、単行ワンマン列車である。ほかには誰も乗っていない。トイレやくず物入れが用意されているのを確認して乗り込む。

 吉都線は、霧島山の北東山麓を走り、肥薩線の吉松と、日豊本線の都城を結ぶ路線である。えびの高原をのんびりと走っていく。

 都城を発車すると、しばらくは茶畑などの中を走る。日向庄内、谷頭と、まったく乗降のない駅もある。万ヶ塚からは、ワンマン運転士は駅に停車こそするものの、扉さえ開けない。早朝の一番列車は、途中までは回送同然なのだろう。まだ外は真っ暗だ。

 広い島式ホームに堂々たる横長の鉄筋コンクリート駅舎を持つ高崎新田で、高校生が4人乗り込む。身を縮こまらせており、とっても寒そうだ。

 火口湖「御池」への入り口にあたる高原で行き違いを行う。ここでも高校生が乗ってくるが、見るからに寒そう。知り合い同士が乗り合わせるのはこの駅が初めてのようで、車内にやっと会話が生まれる。

 高崎新田と同様に立派なホーム、そしてかなり大きい屋根を持つ小林で、乗客の大部分が入れ替わる。それでも、車内の大半が高校生なのは変わらない。「寒い~」という声があちこちで聞こえる。手袋やマフラーの見せ合いをしている。ここは本当に宮崎県なのだろうか、とも思うが、今朝が寒いことは間違いない。

 分水嶺を越えると、えびの市に入る。えびの市は、飯野、加久藤、真幸の各町が1966年に合併したえびの町が、1970年に市制を施行することで成立した。しかし、もともと市街地なるものが形成されていたわけではなく、規模がさほど変わらない複数の町がまとまっただけという印象が否めない。吉都線には、もともと飯野、加久藤、京町の3駅があり、これらがそれぞれ旧町の玄関駅となっていた。なおこれらの各駅は、1990年11月1日に、えびの飯野、えびの、京町温泉と改称されている。

 その最初の駅であるえびの飯野の周囲には、比較的新しい分譲住宅が多く並んでいる。高校や市立病院などの最寄り駅で、残っていた高校生は全員降りてしまい、車内は私1人だけになる。住居の周囲には樹がよく残っている。出雲のようではなく、自然の樹をなるべくそのまま残しているといった感じだ。山からの風が強いのだろうか。

 えびの市の代表格として「えびの」と名乗る旧加久藤駅では、構内に木材がゴロゴロ転がっており、林産資源を鉄道で搬出していた時代を彷彿とさせる。もちろん、現在ではこの規模の駅で貨物を取り扱うはずもないが、広いホームと、貫禄のある木造駅舎は、かつて主要駅として多くの駅員が出入りしていたことをうかがわせる。今では無人化されているが、ていねいに扱われているようだ。ホームには高校生が次々にやってくるものの、この列車には誰も乗り込んでこない。飯野方面に向かうのだろう。ここで行き違いを行うが、都城行きの列車は4両編成で、すでにボックスごとに最低2人は乗っている。空気ばかりを運んでいる当方とはえらい違いだ。

 広々とした農村が展開し、九州自動車道をアンダークロスする。真っ平らの直線を、ディーゼルカーは軽快に飛ばしていく。

 アパートやスーパーなどが見えるようになると、京町温泉に到着する。えびのなどとはうってかわって、シンプルなコンクリート駅舎である。ここで久々に乗車があった。うっすらとホームの端に霜が降りている。そういえば、吉都線の交換可能な幅広ホームにはどこでも、かなりの草が生えている。現在では無用なキャパシティを備えているホームが残っている証左だが、線路の付け替えなども特に行う必要がなかったのだろう。駅前へといたるまっすぐの「駅前通り」が延びていた。

 鹿児島県に入り、民家の裏手にある鶴丸で1人乗り、下り坂を淡々と走っていく。霜を受けて白くなった山や畑が寒々しい。

 右から肥薩線が寄り添ってくると、吉松に到着する。

 吉松は、鉄道の町として発展した。峠を越えてきた列車が機関車を付け替えるので、ここに多くの蒸気機関車が常駐していたためである。肥薩線や吉都線は今でこそ山間のローカル線だが、それぞれ鹿児島本線、日豊本線として開業した、由緒正しい路線なのだ。

 現在の肥薩線は、1909年に矢岳越えが鹿児島本線として開業したものの、多くのスイッチバックやループ線を越える必要であるため、熊本から鹿児島に向かうルートとしては不適切だった。このため、海沿いルートの開業を待って、八代-吉松-隼人は1927年に肥薩線と改称され、支線に格下げされてしまった。

 一方の吉都線は吉松側から、小林町(現・小林)、谷頭、都城と順次延長されていった。当初は宮崎線と称していたが、その後日豊本線と改称され、鹿児島本線から宮崎方面への輸送を担っていた。しかし、矢岳越えルートが凋落したため、宮崎側からみると、熊本より鹿児島との連絡が重要になった。これを受けて1932年に都城-隼人間の全線が開業すると、日豊本線の称をそちらに譲り、吉都線と称したのである。

 両線が“本線”として活躍した期間はあまり長くはないが、その後も亜幹線の分岐駅として、吉松は重要な駅であり続けた。JR化された現在も、霧島高原鉄道事業部の本拠地として、かなりの要員が常駐している。

 その吉松駅で、前に1両増結される。これだけのために22分も停車するのだが、車内にいてもしかたがない。下車する客は誰もおらず、数少ない乗客はじっと待っている。

 列車から出ると、寒い。盆地の中であるうえ、標高もけっこう高いこともあるのだろう。改札口を通るが、誰も出てこない。ホームには洗濯機をはじめとして、所帯臭の強い什器がたくさん見受けられるが、いったい駅員はどこにいるのだろうか。

 きっぷ売り場には、2冊の時刻表が置かれているが、「みどりの窓口」の表示はない。スタンプが2つあるものの、捺してみるとインクが薄く、なかなかうつらなかった。しかも、片方はなんと、霧島西口駅のものである。同駅が無人化されて引き取ったのだろうか。

 時刻表の案内によると、この吉松では駅弁が売られているというが、まだ朝早いせいか、駅弁はおろか開いている商店さえない。駅前にはもともと商店街のようなものは形成されておらず、静かなものだ。

 駅前をぶらついていると、中学生が

「おはようございます」

とぺこりとアタマを下げてくる。こちらも、おはよう、と返す。なかなか気持ちがよい。

 駅の西側には、広大な空間があり、蒸気機関車時代の栄華を思わせる。

 停車時間が長いことを、地元の利用者はよくわかっているのだろう。高校生を中心に、三々五々といった感じで、パラパラと駅に集まってきた。

 やっと発車したディーゼルカーは、ピョーンと甲高い音を立てて発進する。もはや使われず、窓ガラスが割れレールもはがされた車庫が、物置と化していた。

 竹林の中、下り坂を進んでいく。竹林を抜けると勾配はさらに急になる。ディーゼルカーはかなりのスピードで駆け下りていく。川からは白い蒸気が立ち上っている。

 人家がかなり増え、吉松より人家が多そうにみえる栗野に到着する。ここで車内の高校生らの大半が降りてしまう。跨線橋のある島式ホームで、古レールを支柱に用いたホーム屋根はかなりくたびれた感じがある。跨線橋からそのまま連なる鉄筋コンクリートの駅舎もやや疲れた感じだ。行き違いのために停車するとはいえ、停車時間が5分という中途半端な時間では、あまり身軽に動く気にはなれない。旅行をはじめてしばらくの間なら、5分も停まればとりあえず駅の外に出たかもしれないが、すでに疲れがかなり溜まっている。無理は禁物だ。

 1988年1月末かぎりで廃止された旧山野線の跡地が、ずっと右へと分かれていく。レールや枕木の撤去が行われており、痕跡もいずれは姿を消すのだろう。

 大隅横川は、もとはかなりの規模の駅だったようすである。タブレット授受のときに使うクルクルなど、昔風の設備が残っている。駅舎は風雪に耐えたという観がよく似合う木造のものであり、駅全体が箱庭のようだ。

 植村を過ぎ、小さい川を渡ると、すごい白煙が立ち上っている。気温が相当低いのだろう。ヘッドフォンステレオを耳に当てながら、オーデコロンをつけ髪を整える男子高校生がいる。

 霧島西口で、高校生のほぼ全員が降り、車内は一気に静かになる。駅舎はコンクリート造であった。この時点で、2両目の車内にいる乗客は8人である。ちょっとうとうとする。

 嘉例川は片面ホームのみの小駅だが、駅のラッチから梁にいたるまで、すべてを木で統一してそのまま活用している。まさに「保存されている」かのごとき古い木造駅舎が、感動的なまでに残っている。ぜひ一度、降りてみたいものだ。

 鹿児島空港が近い表木山は、列車の行き違いが可能というだけで、簡素な待合室があるのみの寂しい駅であった。周囲には数戸の集落があるのみで、駅の利用者はどの程度あるのだろう。

 林や切り通しを抜け、日向山で高校生が下車。一段高いところに駅舎がある片面のみの駅である。ここからラストスパートとなり、すごい早さでディーゼルカーは駆ける。下り坂だと元気になるのがディーゼルカーの特徴だな、と思う。

 終点の隼人には、8時43分に到着した。都城から吉松を経由して最後まで乗り通す酔狂な客は、年間どれぐらいいるのだろうか。

 隼人では少し時間があるので、出札窓口で寝台券を購入する。都城では買い損ねたものだが、ここでは問題なく発券された。

 隼人からは、8時56分発の西鹿児島行き6連に乗り込む。このうち前3両は、川内まで足をのばす。ここまで1両だの2両だのといった編成が中心だっただけに、6両という長さに、本線のスケールを感じる。もっとも、これが首都圏になると11両編成でも「短い」とアナウンスされることもあるし、私が毎日の通学に使っている電車は10両編成でも超満員なのだけれど。

 雲一つない青空になる。左手に見える桜島のうえに、ぼんやりしたものがかかっているが、雲なのか噴煙なのか、いまひとつ判然としない。モーター音を立てながら、電車は田畑の中を進んでいく。

 トンネルを抜けると、加治木に到着する。その昔は島津氏が拠点を置いた町で、この一帯ではもっとも活気がありそうだ。50万都市である鹿児島の近郊に入っており、真新しい住宅も多く見られる。

 川とも入り江ともつかない水路を渡り、民家の中を左へとカーブすると、帖佐に到着する。素っ気ない駅だが、どこか気に掛かる駅舎だ。ここで上り「きりしま」と交換する。このほか、錦江、姶良など、急ごしらえといった感じの、味も素っ気もない無人駅が並ぶ。駅周辺にはごく新しい家が多く、ニュータウン的な雰囲気がある点で共通している。

 重富駅では、鉄カブトのような重さを感じさせる駅舎が出迎えてくれた。ここで数人が下車する。駅務室には人の気配があるが、有人駅かどうかは定かではない。

 重富を出ると、錦江湾に沿って走っていく。南国の強い日差しを受け、金色の光景が広がり、まぶしい太陽が海に栄えている。ゆらゆら動く波は、ちらちらと光をとらえては放す、それを繰り返す。空の青と海の青とのコントラストは、日の光の鮮やかさ、強さをさらに強める。

 竜ヶ水は、崖の脇の何もない駅だが、水害の発生現場として名高い。1993年8月6日に鹿児島地方を襲った豪雨のために大規模な鉄砲水が発生し、駅ごと土石流に呑み込まれた、いわゆる「8・6水害」である。運転抑止でこの駅に閉じこめられた旅客は、JRの職員や現地警察官などの活躍によって辛くも難を逃れたことは、さまざまなメディアで報じられた。崖の壁面部分の工事はすべて終わったようで、水の放出を調整できるようだ。ホームには石碑「竜ヶ水災害復旧記念碑」が立っている。ここで少し停車し、行き違いを行う。駅そのものは、単に国道に面しているだけで、どうしてここに駅があるのか、よくわからない。単に、行き違いをするついでに、サービスとして客扱いを開始しただけなのかもしれない。

 左手に見える桜島は、噴煙を雲状に広げている。島の西側に回ってくると、噴火口から煙が出ている感じがよくわかる。風はあまりなく、波は穏やかだ。

 トンネルを抜けると、鹿児島駅に到着する。だだっ広い構内だが、使われているホームはごく限られており、大半は草むしてフェンスに囲まれている。もともと鹿児島のターミナルだったのだが、その後特急列車の発着の任は西鹿児島が受けており、現在では事実上ローカルな中間駅にすぎなくなっている。しかし、鹿児島市電の連絡駅ということもあってだろう、ここで降りる人もけっこういる。ホームの空きスペースの多くは、そのまま駐車場となっていた。

 駅前に、市電が3両仲良く並んでいるのを横目で見ながら、右へとカーブする。もう1つトンネルを抜け、西鹿児島には9時37分に着いた。

 西鹿児島からは、鹿児島本線を鳥栖まで北上する。実際には、鹿児島本線は門司港から鹿児島までの区間であり、したがって西鹿児島は単なる中間駅なのだが、実質的にはこの駅が鹿児島本線の終点といってよい。その西鹿児島駅も、九州新幹線の開業に向けて大規模な工事が行われており、巨大な橋上駅舎は忙しそうだ。

 私が乗る列車は、10時5分発の特急「つばめ10号」である。昨日、小倉から南宮崎まで乗ったのと同じ形式の車両だ。さすがに目新しさはないけれど、何度乗ってもよい車両だと思う。

 特急が停まっているホームには、駅弁売りのおっさんが、愛想を盛んに振りまきつつ、さまざまなパフォーマンスを演じている。ラストは列車に向かってお辞儀したり手を振ったり、とにかく最初から最後までハイテンションだ。商売人はパフォーマーでなければならないものかどうかは意見が分かれそうだけれど、この人は西鹿児島駅の名物なのだろうか。

 発車すると、すぐにトンネルに入る。鹿児島は山や崖が海に迫っているところに、かなりの人口がひしめきあっている。土地が少ないから、山を削って住宅を建てているところが多い。しかし、開発が進むと、もともと保水力の弱いシラス台地のことゆえ、すぐに水害に結びついてしまうから、難しいところだろう。

 自由席は、各2列シートに1人ずつ座る程度の入りである。もう少し混んでいるかと思ったが、鹿児島本線といえども南端部分ではこのくらいが自然なのかもしれない。

 伊集院にある旧鹿児島交通のホーム跡地は、一部が駐車場になっているものの、大半が草むして残っていた。ここで、車掌が検札に回ってくる。

「あー…はい、はい…熊本までですね」

 チェックしたのは特急券だけだった。台地が続き、切り通しの中を進んでいく。

 金の産出で名高い串木野に着くと、下りの「つばめ」が待っていた。駅前にはスーパーやマンションが建つが、その一方で遊休地が広がっているのが寂しい。下りには悪いが、こちらが先発する。

 川内を出て、薩摩高城(さつまたき)を過ぎると、左手に東シナ海が見えるようになる。白い波が砂を洗う。外海なのだが、ずいぶんと穏やかだ。野菜畑やビニルハウスが立ち並ぶ風景の中を、わが特急列車は楽しそうに突き進んでいく。

 待合室というよりは、通路に近い囲みがあるだけの寂しい駅、折口で下り「つばめ」と行き違いをする。

 海から離れると、たちまち切り通しの中に埋もれてしまう。周囲の障壁がなくなると、目に入るのは畑が多い。こんな眺めだったっけか、と思う。

 そんな畑の中にスーパーが見えると、だんだん民家が増えていく。米ノ津川を渡り、左へカーブすると、出水駅の本屋前ホームに到着する。ホームが非常に長い。コンコースの天井は高そうだが、改札口の幅が狭く、アンバランスに見える。駅舎は無骨な鉄筋コンクリート造で、平凡な横長タイプではなく、丸く太い柱やぬっとせり出した屋根が頑固そうな印象を与える。出水は薩摩藩の麓集落として栄え、現在は重要伝統的建造物群保存地区に指定されているが、観光客を意識したつくりというわけではなさそうだ。

 左に農協の倉庫群を見ながら出発し、出水市の郊外をくねくねと曲がりながら走っていく。勾配を上ると、八代海が見えるようになる。明るい海の色が、なんだか暖かく感じられる。

 水俣でも、駅本屋の前に停車する。ホーム屋根が大きいことを除けば、特筆すべきことはない平凡な駅舎だが、ここからの乗車がけっこう多い。ここまでの途中駅からは、私が乗っている自由席にはほとんど乗ってこなかっただけに、意外だ。ここから分岐していた山野線の痕跡は、栗野と異なり判然としない。

 暖かい陽光を受け、のどかな雰囲気の民家が続く。時おり、切り立った岩が山のてっぺんに見えたりする。また、九州新幹線の工事が進んでいたりする。ただ、トンネルが多いのが残念だ。

 足下まで波が打ち寄せるところを走っていく、向こうに見える島々が美しい。「八代海、大小120の島々から成る天草島…」という車内案内が流れる。ところどころに漁港があり、ばあさんがカゴから海草を引き出していたりする。日奈久では「日奈久温泉」の標柱が倒れていた。

 球磨川を渡り、いったん肥薩線をオーバークロスする。八代平野は、三角州を干拓で拡大していったような面があるが、鉄道はその東側を走っていく。

 八代で5分停車する。切り欠き式ホームに単行の銀色ワンマンカーが停まっていた。肥薩線下り、アクアエクスプレス車両の「くまがわ」を待って発車する。

 八代以北は、田園地帯を淡々と進む。もう海はまったく見えない。

 熊本には、12時38分に着いた。

 熊本駅でいったん改札口を出るが、対応は素っ気ないものだった。

 駅構内にある郵便局に足を運ぶと、大学に願書を出す受験生でごった返している。「同志社の経済、失敗した」なんていう声も聞かれた。

 熊本からは、13時8分発の普通列車に乗る。2両編成のワンマン列車だった。ロングシートだが、各席を独立させた、特徴あるシートである。ドアの内装は黄色、床はグレー、窓は巨大な1枚ガラスではめ殺しと、普通列車としてはなかなか斬新で、JR九州以外ではこんな芸当はできやしまい。12人シートだが、乗客は6人程度である。

 熊本城を見ながら進み、歴史的建造物として評価の高い上熊本の駅舎が見えてくる。駅周辺の再開発はまだまだこれからのようで、駅前の空きスペースが雑然と自転車駐輪場として使われている。熊本電鉄ホームには、東急から転属した下ぶくれの「青ガエル」が停まっていた。

 熊本工大前では全部のドアが開閉したが、駅員がいる気配はない。

 無人駅の西里では、先頭車のみが後乗り前降りとなる。道路脇の急勾配に設けられている駅で、開業当初から無人駅だったと思われる。

 田畑に陽光がさんさんと降り注ぐ中を、軽い列車はけっこう速く走る。植木では、広い構内に作業用車両が何台か停まっていた。ここで女子高生がけっこう降りる。

 ちょっとした山間部へと入っていき、周囲は木ばかりになる。ときおり平地に出ると、周囲は田畑がある。

 西南戦争の戦場として名高い田原坂は、シンプルな無人駅。いつの間にか雲が出ており、日を遮る。ここまでいくつかの無人駅から乗車があるが、整理券を撮っている人はだれもいない。近くに学校があるようで、チャイムの音が響いてくる。

 マンションが多く出てくると、玉名に到着する。構内は相当広いが、駅の両側は駐車場になっている。

 大野下で、意外にも多くの客が降りていく。ここも、小さな木造駅舎を持つ無人駅。駅前の集落そのものはさほど大きくないのだが、自転車駐輪場や駅前の駐車場に直行する人が多いことを見ると、少し離れたところに集落があるのだろう。

 長洲駅ホームには、巨大な金魚が出迎えていた。日本有数の金魚の産地であることをアピールしているのだろう。ここでも、特に高校生が多く下車する。

 構内に多くの側線が広がる荒尾では、重厚な駅舎が健在だった。ここから工業地域が北へとつながっていく。荒尾までが熊本県、次の大牟田からは福岡県なのだが、ここが県境になっているのがどうにも解せない。

 大牟田に、14時3分に到着。ここからは、あとから発車する快速列車に乗り換える。

 後続の快速列車は、大牟田14時16分発、3扉転換クロスシート車4連というもの。大牟田以北では快速列車が充実しているが、これは平行して西鉄が走っていることへの対抗策という意味があるのだろう。上り「つばめ」が4分ほど遅れるため、こちらも遅れる。

 かなりの速さで進んでいく。三池鉄道のガードをくぐり、次の銀水で、大牟田まで乗ってきた各駅停車が停まっているのを見届ける。水田が広がり、アパートや工場と雑木林が混在したりする。

 飯紀川を渡り、水田がさらに広がる。このあたりから北西側は、日本でもっともクリークが発達している地域で、網の目のように水路がはりめぐらされている。昨日降ったと思われる雪の気配はまったくない。

 屋根の崩れた洋館らしき廃墟を見ながら、瀬高へと入っていく。ホームには幸若舞の説明板などがある。

 羽犬塚を出たところで、車掌が検札にくる。びっくりしてのけぞるだけで、経路も何も見ずに「はいありがとうございました」と切符を返す。

 荒木は、茶筒のような円筒形の駅舎を持っている。ここでそこそこの人数が乗ってくる。むだに広い構内は、以前は相当の駅であったことを示している。ほとんど一直線というところもあり、民家の軒先を相当なスピードで快走する。

 築堤に上がり、久留米にすべりこんでいく。やはり、ここで乗ってくる人がずいぶん多い。駅前には、西鉄のバスがずらりと並んでいる。いっぽう、西側にはたいへんな量のコンテナが積まれている。貨物ホームが屋根付き、現役で活躍しているのは、今となっては珍しい。

 すぐに筑後川を渡ると、再び田園地帯に入る。久留米の市街地はかなり大きく広がっているのだが、JRの久留米駅はその西の端に位置しているため、列車は市街地をかすめるような格好になっているのだ。はるか遠く離れたところに、高層マンションが多く見えるが、西鉄久留米駅の方面だろう。

 14時46分、鳥栖に着いた。

 鳥栖は、交通の要衝として栄えた都市である。福岡方面から、鹿児島方面および長崎方面に向かう場合、道路も鉄道も鳥栖で分岐する。道路はいったん作ってしまえばどうということもないが、鉄道の場合は職員が大量に常駐するため、それだけで一大都市が形成されてしまった、ともいえる。屋根が大きいいっぽうで線の細そうな木造駅舎は健在だが、今となっては重厚に過ぎる観もある。

 15時16分発の特急「みどり・ハウステンボス15号」に乗り込む。何とも不思議なネーミングだが、途中の早岐で、佐世保行きの「みどり」とハウステンボス行きの「ハウステンボス」に分割するわけだ。2人ぶんまるまる空いているシートもちらほら見られる程度の入りである。モケットはJR九州標準タイプ、外装は真っ赤だ。

 右へぐいっとカーブを描き、鹿児島本線と分かれる。車窓は水田が占めているが、右手には工場が並ぶ。

 車掌が検札に回ってくる。今日は特急列車を使うことが多いせいもあるのだろうが、検札にあう確率がずいぶん高い。

「わーすごいね…。どちらから乗ってこられとるん?」

「はー、稚内…。もうスタンプ捺すとこないね」

 線路状況がよいせいか、実に快調に進む。揺れも大してない。

 吉野ヶ里公園駅は、何だか大がかりな工事中。通過すると、右手に吉野ヶ里遺跡の物見櫓が見える。もう1つの同遺跡最寄り駅である神埼駅は、10年近く前に降りて以来、ほとんど変わっていないようだ。

 高架になり、佐賀が近づくと、「汽笛一声…」のメロディが流れる。そういえば、以前JR九州の特急に乗ると、同社の社歌「浪漫鉄道」のメロディが流れたものだが、今回の旅行では、今にいたるまで聴いていない。「ハイパーサルーン」なら聴けるかもしれないな、と思う。

 佐賀で相当の客が降りてしまい、乗客は半分以下にまで落ち込む。佐賀の力が大きいというより、これから先の都市規模がぐっと小さくなる、ということなのだろう。

 アイスクリームの車内販売が回ってくる。真冬なのだが、それなりに売れている。暖房が効いているし、日がよく照っているし、こういうときに冷たいものを食べるのがいいのかもしれない。

 木造の風情ある駅舎を持つ鍋島、唐津線を分岐し構内の広い久保田を、それぞれ一瞬で通過する。やはり、普通列車でのんびりきてもよかったか、と思う。

 肥前山口には、15時41分に着いた。

 肥前山口からは、長崎本線で諫早に行き、ここから大村線で早岐へ向かい、佐世保線に乗り換えて、再びこの肥前山口に戻ることになっている。

 時刻表で調べたところ、後続の特急列車に乗って諫早から大村線に入り、早岐で佐世保線に乗り継げば、19時7分には肥前山口に戻ってくる。諫早では2分接続、早岐では1分接続という絶妙なものだ。しかし、いくら西九州といえども、1月の午後7時なら、もう真っ暗だろう。やはり、明るいうちにゴールインしたい。それに、ここまでくれば、楽しみを少しでもあとに残しておきたい、という気にもなる。今日の宿は、肥前山口駅近くの旅館を予約してあるので、早めに宿に入り、ゆっくり休むことにする。

 くだんの切符を改札口で示す。駅員氏は、戸惑ったような驚いたような、複雑な表情。好奇心を示すというのではなく、面倒そうだからさっさと行け、という感じである。ややこしいことには関わりたくないのはわかるけれど、それが客にすんなりわかってしまうのは、商売人としていかがなものかと思う。

 駅前の旅館にいったん荷物を置いてから、まず郵便局へ向かい、ついで駅に戻り、帰りの乗車券を買う。経路が多少入り組んでいるものの、単純な片道乗車券なのだが、この発券に45分ほどかかる。小野田線の雀田や横浜線の橋本を経由するのだが、出てきた切符にはこれが印字されていないため、ボールペンで書き込んでもらう。

 あらためて、駅をゆっくりと眺める。ホームから見ると、多くの側線が南側に広がっており、長崎本線と佐世保線とのジャンクションとして恥じない設備がうかがえるのだが、駅舎はずいぶんと控えめだ。あまり広くない待合室、それ以上に小さい改札スペースとみどりの窓口があるだけで、駅を出るとすぐ道路である。駅の車寄せにはちょっとしたタクシー乗り場があり、緑色のシート屋根が設けられているが、お世辞にも格好がよいとは見えない。一言でいえば、地方によくある平凡な駅、という印象である。

 最長片道切符の旅を実行した人は、これまでにもたくさんいるし、肥前山口で旅を終えた人もかなりいるに相違ない。そういった見も知らぬ先達たちは、この駅をみてなにがしかの感慨を覚えたのであろうが、平凡なルックスの駅が最終地点であることは、“徹底的に非日常化された普段着”とでも呼ぶべき、倒錯した道の果てを示すのに適しているのかもしれない。

 簡単に食事を済ませ、早くも21時には寝てしまう。

 明日、いよいよ旅が終わる。

乗車列車一覧
区間と発着時刻列車番号
222nd都城553→隼人8432921D
223rd隼人856→西鹿児島9376931M
224th西鹿児島1005→熊本123810M(特急・つばめ10号)
225th熊本1308→大牟田14035330M
226th大牟田1416→鳥栖14464344M(快速)
227th鳥栖1516→肥前山口15414015M(特急・みどり/ハウステンボス15号)
乗降駅一覧
(都城、)吉松[NEW]、隼人、西鹿児島、熊本、鳥栖、肥前山口[NEW]
[NEW]を付しているのは、この日にはじめて乗り降りした駅です。
訪問郵便局一覧
熊本駅フレスタ郵便局、山口郵便局(貯金のみ)

2004年8月14日

ご意見、ご感想などは、脇坂 健までお願いいたします。
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