島式ホーム1面2線から成る無人駅で、田川後藤寺方面にある構内踏切で外に通じる格好になっていますが、無関係なところから出入りする人も少なくないようです。後藤寺線唯一の交換可能駅で、比較的最近まで通票閉塞式が行われていましたが、現在は自動閉塞式になっています。
駅の北側には、比較的新しく開発された住宅団地がありますが、駅前広場は駅の南側にあり、ガランとした無人の空間は、単なる送迎スペースとして利用されています。かつては軒を大きく前面にせり出すという不思議な格好の木造駅舎がありましたが、現在では解体され、駅前広場には当時から使われていた表札が残されているのみです。老朽化が進んでいたために妥当な措置ではありましたが、待合室などという気の利いたものはなく、ホーム上に風よけで囲んだ自動券売機が置かれているのみです。
漆生線が廃止された現在、旧稲築町(→現、嘉麻市)唯一の駅となっていますが、同町(→同市)の主要集落からは大きく離れており、駅前に路線バスが乗り入れているわけでもないため、ガランとしています。かつて4方向に路線が分岐していた次代の名残は、ほとんど何もありません。
乗り場
確認中。
駅名の由来
確認中。
歴史
貨物専業路線として、1913年8月20日に上三緒から漆生(うるしお)へいたる路線が開通しましたが、当時はまだ駅が設けられていませんでした。1916年2月になり「赤坂」として駅が設置され、1920年5月10日に上記区間の旅客営業が開始されると同時に、筑豊本線から独立して漆生線と称し、旅客の取扱を行うようになります。
いっぽう船尾方面からは、九州産業鉄道(のち、産業セメント鉄道)の手によって1926年7月15日に開通し、これと同時に同鉄道線も旅客営業を開始、官鉄との境界駅である起行(きぎょう、貨物駅)を介して後藤寺まで連絡しました。また、赤坂炭鉱への貨物支線も同時に開業しており、この時点で、新飯塚方面、船尾方面、漆生方面、赤坂炭鉱方面の4方向にレールが延びていたことになります。
産業セメント鉄道は1943年7月1日に国有化されて赤坂駅は統合され、後藤寺にいたるルートは後藤寺線となりました。1956年12月20日には、下鴨生と改称されています。それ以降は、筑豊炭田の衰退に伴って路線の縮小が始まり、1974年3月4日かぎりで貨物営業が廃止され、1986年3月末かぎりで漆生線も全廃されています。
- 【1916年5月1日】 開業。
周辺の見どころ
確認中。