最長片道切符の旅

目次

日付
内容
プロローグ
小人閑居して奇行を為す
第1日(1999年12月16日)
稚内-新旭川-網走
第2日(1999年12月17日)
網走-東釧路-新得-富良野-旭川
第3日(1999年12月18日)
旭川-岩見沢-沼ノ端-白石-小樽
第4日(1999年12月20日)
小樽-長万部-五稜郭
第5日(1999年12月21日)
五稜郭-木古内-中小国-青森-好摩-大館-弘前
第6日(1999年12月22日)
弘前-川部-深浦-東能代-秋田-酒田
第7日(1999年12月23日)
酒田-坂町-米沢-新庄-大曲-盛岡-宮古
第8日(1999年12月24日)
宮古-釜石-花巻-一ノ関-気仙沼-前谷地-石巻-仙台
第9日(1999年12月25日)
仙台-白石蔵王-福島-岩沼-いわき-郡山-新津-長岡-燕三条-新潟
第10日(1999年12月26日)
新潟-柏崎-宮内-越後川口-豊野-高田
第11日(1999年12月27日)
高田-直江津-糸魚川-松本-長野-高崎-上毛高原-越後湯沢-新前橋-小山-安積永盛
第12日(1999年12月28日)
安積永盛-水戸-新松戸-南浦和-赤羽-池袋
第13日(2000年1月5日)
池袋-田端-秋葉原-佐倉-成田-松岸-成東-大網-安房鴨川-蘇我-東京-新宿
第14日(2000年1月8日)
新宿-西国分寺-武蔵浦和-大宮-倉賀野-拝島-立川-川崎-品川-新川崎-横浜-桜木町-大船-国府津-松田
第15日(2000年1月12日)
松田-沼津-富士-甲府-八王子-新横浜-小田原-三島-新富士-静岡-豊橋
第16日(2000年1月13日)
豊橋-辰野-岡谷-塩尻-名古屋
第17日(2000年1月14日)
名古屋-亀山-紀伊田辺
第18日(2000年1月15日)
紀伊田辺-和歌山-高田-奈良-天王寺
第19日(2000年1月16日)
天王寺-京橋-木津-柘植-草津-山科-近江塩津-米原-岐阜-鵜沼
第20日(2000年1月17日)
鵜沼-富山-鯖江
第21日(2000年1月18日)
鯖江-敦賀-東舞鶴-綾部-太秦
第22日(2000年1月20日)
太秦-京都-新大阪
第23日(2000年1月21日)
新大阪-新神戸-西明石-尼崎-福知山-諸寄
第24日(2000年1月22日)
諸寄-鳥取-東津山-姫路-上郡-岡山-津山
第25日(2000年1月23日)
津山-新見-倉敷-福山-塩町-備中神代-伯耆大山-米子
第26日(2000年1月24日)
米子-江津-尾関山
第27日(2000年1月25日)
尾関山-三次-広島-柳井-小郡-津和野
第28日(2000年1月26日)
津和野-益田-長門市-厚狭-下関-門司-小倉-博多-原田-桂川-吉塚-折尾-新飯塚
第29目(2000年1月27日)
新飯塚-田川後藤寺-城野-都城
第30日(2000年1月28日)
都城-吉松-隼人-鹿児島-鳥栖-肥前山口
第31日(2000年1月29日)
肥前山口-諫早-早岐-肥前山口
エピローグ
旅の終わりは個室寝台車

「最長片道切符の旅」について

JRグループで可能な「最長片道切符」の旅を、1999年12月16日から2000年1月29日まで、数日の中断をまじえて実質31日で実行した記録です。

当時、20世紀も終わりを迎え、国鉄の分割民営化という、日本の鉄道史上最大級の大変革から、12年以上が経過していました。分割民営化後も、事業を継承した旅客鉄道会社においては、乗車券に代表される基本的なきっぷのルールは、原則として国鉄時代のものが踏襲されました。しかし、北海道、四国および九州三島会社の運賃先行値上げを初めとして、料金体系の独自化などの動きが見られるようになりました。このため、“統一体系”が果たしていつまで残るのか、心許ないという気がしておりました。

そんな折、一介の好事家が実際に行った、日本縦断の旅。通常であれば、経路という名の“手段”で済ませてしまうものを、全面的に“目的”へと転回、逆転させるという、大胆にして無謀な試みです。私は、それまでに国内の鉄道全路線全区間に乗車してきましたが、ここまで大胆なる“転倒”は初めてですし、おそらく今後もないでしょう。大仰かもしれませんが、一世一代の“大旅行”です。

券面の経路に従った場合、旅客鉄道会社のうちJR四国が含まれないので、「全JR縦断」とはいかないのが残念なところですが、北海道、東日本、東海、西日本、九州の各JRを乗り継ぐ旅の結果、何が見えてきたかを、自分なりにまとめてみました。もとより、一介の旅人にして偏屈者に過ぎない個人の見聞ゆえ、客観性に乏しいこともさることながら、どの程度の資料的価値が残るかはなはだ怪しく、ましてその中に紀行文としての魅力を湧出せしめることなど、望むべくもないでしょう。しかし、“記録”という行為によって、陰に潜んでいた“日本-観”をいくぶんなりとも相対化可能であるのならば、それだけで、私自身に大きなメリットとなると信じ、またその担保として、一連の行為を公開することに踏み切ったしだいです。

また「最長」の定義について、細かい部分では、人によって考え方が異なる場合があります。私は、本州内の経路策定は市販の書籍に紹介されているものをそのまま使いましたが、それでも、解釈によって経路がかなり変わってきます。これらの経路決定については、折に触れて本文中で簡単な解説を施しましたが、より具体的には「切符の経路や旅行の実際に関する質問と回答」をあわせてご参照ください。

拙文をお読みいただき、この大“奇行”に関心を持たれた方は、ぜひとも『最長片道切符の旅』(宮脇俊三、新潮文庫)をお読みになることをお勧めいたします。渋いユーモア、そこはかとなく感じられるペーソスで味付けされた名紀行文という面もさることながら、氏が実行された1978年当時と比較してみると、非常に興味深いものが出てくると確信いたします。一方、『阿房列車』(内田百間)などは、名随筆ではあっても史料的にはあまり興味を惹かないあたり、文を書くときの姿勢の相違を感じます。

また、各文の末尾に、乗り継いでいった列車、乗降駅、訪問郵便局に関するデータを掲載いたしました。