南海電気鉄道(南海)

 南海電気鉄道(略称、南海)は、大阪府と和歌山県を地盤とする、大阪府大阪市中央区に本社を置く大手民鉄です。南海本線と高野線の二大幹線が中心になっていますが、両線ともターミナルが難波となっており、存在感のある大きい駅ビルは阪急梅田駅に次ぐスケールを誇っています。

 1885年に開業した阪堺鉄道が前身で、私鉄としては日本で最も古い部類に属します。1903年には現在の南海本線が早くも全通したほか、1909年には浪速電車軌道(現在の上町線)、1915年には阪堺電気軌道(現在の阪堺線ほか)を合併して南大阪の鉄軌道ネットワークを構築し、1922年には大阪高野鉄道(現在の高野線)を合併しています。さらに、1925年には高野山電気鉄道を設立し、山岳区間では同社により路線が運営されました。その後、戦時中には統制下で関西急行電鉄と合併して近畿日本鉄道の一部となりましたが、この合併は定着せず、戦後の1947年に南海電気鉄道(高野山電気鉄道が社名変更)が旧南海鉄道を譲受する形で事実上の再分離を果たしています。

 かつてはプロ野球球団(当初は「南海軍」、戦後は「南海ホークス」)を運営していましたが(本拠地は難波にあった大阪球場)、1988年にダイエーへ譲渡しました。

(2006年9月30日)

【URL】http://www.nankai.co.jp/

★1996年2月20日、高野山にて完乗(その後の開業区間も乗車済み)。2011年1月9日、中百舌鳥にて全駅乗降(その後に開業した駅も乗降済み)。全駅の写真を掲載しています。

南海本線

 難波から和歌山市へいたる、全長64.2kmから成る南海のメインラインです。全線が1,067mm軌間で、かつては国鉄紀勢本線との直通列車も運転されていましたが、現在は他社線との相互乗り入れはありません。

 難波から住ノ江までの区間は複々線ですが、このうち難波-岸里玉出は南海線電車と高野線電車の方向別複々線となっており、途中駅の今宮戎、萩ノ茶屋の両駅には南海線電車は停まらず、高野線電車のみが停車します。市街地として古くから開けたところを走るため沿線の人口密度は高く、大阪市から堺市にかけては下町の風景が続きます。堺市南部の諏訪ノ森あたりから落ち着いた雰囲気が出てきますが、駅の施設などには、大手私鉄としては心なしかくたびれた状態のままになっているものが多く見受けられます。その一方で、諏訪ノ森や浜寺公園などの美しい駅舎が数多く残っているのも特徴です。

 1885年12月、阪堺鉄道によって難波-大和川(現在は廃止)が開業したのが始まりとなる古い路線で、堺から南側は南海鉄道によって順次開業しました。この両者は1898年10月1日に合併し、1903年3月21日に難波から和歌山市までの全区間が開通しています。1906年には、当時の列車内で食堂車を運営するなど、ユニークなサービスを行っています。1925年3月には、岸ノ里(現在は玉出と統合し岸里玉出に)で連絡していた高野線との連絡線を設置し、高野線の列車が難波へ乗り入れるようになりました。さらに、ライバルとなる阪和電気鉄道の開通が迫った1924年には、喫茶室を連結した豪華急行電車を運行、1934年には国鉄線との直通列車を運転、1937年には日本初の冷房車の運転(これは同年かぎりで中止)など、サービスの拡充に務めています。阪和電気鉄道合併、近畿日本鉄道への合併と再分離を経て、戦後はしばらく大きな動きがなかったものの、1966年12月1日に大阪環状線との交差部に新今宮駅が開業すると、天王寺をはじめとした大阪環状線沿線の接続駅は同駅に移動し、それまで難波につぐターミナルだった天王寺の存在は急に軽いものとなっていきます。1994年9月4日には、空港連絡特急「ラピート」の運転を開始しましたが、客足は思ったように延びず、ほどなく中間停車駅を増やすことになっています。現在、高架化工事が各地で進められています。

(2006年10月7日)

駅一覧

難波今宮戎新今宮萩ノ茶屋天下茶屋岸里玉出粉浜住吉大社住ノ江七道石津川諏訪ノ森浜寺公園羽衣高石北助松松ノ浜泉大津忠岡春木和泉大宮岸和田蛸地蔵貝塚二色浜鶴原井原里泉佐野羽倉崎吉見ノ里岡田浦樽井尾崎鳥取ノ荘箱作淡輪みさき公園孝子和歌山大学前紀ノ川和歌山市

乗車履歴

高野線

 汐見橋から岸里玉出、橋本を経て極楽橋へいたる、全長64.5kmの路線です。南海本線と並ぶ南海のメインラインで、路線のキロ数もほぼ同じです。ただし、岸里玉出を境に線路が分断されており、岸里玉出-橋本は全列車が岸里玉出経由で南海本線の難波に乗り入れるいっぽう、汐見橋-岸里玉出は同区間内のみの折り返し運転を行っています。このため、一般的に「高野線」という場合、難波から橋本方面へ向かう運転系統を指します。なお、汐見橋-岸里玉出は「汐見橋線」として案内されており、営業案内上でも高野線から分断され、正式路線名称においてのみ高野線所属となっているに過ぎません。

 難波から極楽橋へは特急「こうや」が運行され、高野山への観光客輸送を担っています。極楽橋ではケーブルカーに乗り換えることになりますが、駅などでの案内では「高野山」が前面に出ることが多いようです。また、難波から橋本までの特急「りんかん」もあり、こちらは通勤客や買い物客への着席保証列車という位置づけになっています。

 難波から複々線のうち東側の線路を進む高野線列車は、岸里玉出で分岐し、河内平野を南下します。南海本線に比べて古い施設などがそのままにされている(意図的に「残されている」のではない)ことが多く、関西の大手私鉄としては異色の存在です。河内長野までは平坦な区間ですが、ここからは和泉山脈を越え、南海が総力をあげて開発した林間田園都市を経て、JR和歌山線との接続駅である橋本に到着します。ここまでは、沿線に住宅地が並ぶ通勤通学路線ですが、橋本以南は急曲線と急勾配が連続する日本有数の山岳路線で、現在も宅地化は進んでおらず、高野山への観光路線という位置づけになっています。おおむね人口密度も低いのですが、全駅が有人駅です。

 汐見橋から岸里玉出までの区間は、岸里玉出以南との分断後は減便が続いており、データイム30分間隔と、都心近くを走る路線とは思えないダイヤになっています。それでも岸里玉出駅構内を除いて全線が複線となっているのは、計画があるなにわ筋線との関係によるものでしょうが、同線開通への具体的な動きは見られず、かといっててこ入れの方法も見あたらず、放置状態に近いのが現状です。全線がワンマン化されており、無人化されている駅もあります。

 高野鉄道によって、大小路(現、堺東)-狭山が1898年1月に開通したのが始まりです。その後、大阪側のターミナルを汐見橋として道頓堀(現、汐見橋)-長野(現、河内長野)が開通しました。もっとも、営業成績はふるわず、1907年11月には東武系の高野登山鉄道に譲渡され、さらに1922年9月には南海鉄道に合併しています。全線電化後は1915年3月に橋本まで、1925年7月には椎出(現、高野下)まで開通しました。あわせて、南海線と交差する岸ノ里駅での連絡線が1925年3月に設けられ、1929年には高野線の全列車が難波発着となり、汐見橋方面は区間列車のみが往復することとなりました。その後は、山手線(旧阪和電気鉄道線)との交差地に三国ヶ丘駅を設けるなど、複線化工事や新駅の設置が盛んに行われました。1944年には南海鉄道が関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道高野線となり、一時は難波への乗り入れが中止され再び汐見橋がターミナルとなりました(1946年夏ごろに難波乗り入れ再開)。

 いっぽう高野下-極楽橋は、高野登山鉄道とは別の高野山電気鉄道によって、1928年から1929年にかけて開通しました。1932年から南海高野線と相互直通運転を開始し、難波-極楽橋の直通列車が運行されています。同鉄道は南海鉄道にも、そして近畿日本鉄道にも合併せず独立会社のままでしたが、旧南海が近鉄から分離する際の受け皿会社となりました。

(2006年10月7日)

駅一覧

汐見橋芦原町木津川津守西天下茶屋-[岸里玉出]-帝塚山住吉東沢ノ町我孫子前浅香山堺東三国ヶ丘百舌鳥八幡中百舌鳥白鷺初芝萩原天神北野田狭山大阪狭山市金剛滝谷千代田河内長野三日市町美加の台千早口天見紀見峠林間田園都市御幸辻橋本紀伊清水学文路九度山高野下下古沢上古沢紀伊細川紀伊神谷極楽橋

乗車履歴

天王寺線

 南海天王寺線は、南海線の天下茶屋と天王寺を結んでいた路線で、旅客、貨物の双方で国鉄との連絡を果たす路線と位置づけられました。しかし、貨物輸送需要の減退に加え、1966年には南海線に新今宮駅が開業して国鉄大阪環状線への乗り換えがスムーズになると、天王寺線の存在意義は激減、1984年11月17日かぎりで天下茶屋-今池町が廃止されました。これは、同区間における地下鉄堺筋線延長工事によるもので、今池町-天王寺が離れ小島として存続することになりました。

 区間廃止に際して、今池町と南海線萩ノ茶屋駅が相互連絡駅となり、南海線各駅と天王寺の間は通しの切符が発行されていました(萩ノ茶屋商店街を連絡通路と扱っていたというのもすごい話ではあります)。その後、同年12月10日には飛田本通駅を設置して旅客の掘り起こし策が図られましたが、結局1993年3月末かぎりで全線が廃止されました。

 区間廃止後は、全線が単線化され、天王寺のターミナルは阿部野橋直下の仮設駅が使われるなど、非常に貧弱な設備の上を単行の電車がのっそり走るという状態で、どうしてこの区間のみが残されたのか理解に苦しむ状況でした。廃止直前の駅は、天王寺、飛田本通、今池町の3つでした。

(2006年10月7日)

駅一覧

×天王寺、×△今池町

(注)△は写真未掲載駅です。

乗車履歴

高師浜線

 南海線の羽衣から高師浜へいたる1.5kmのミニ路線で、全線が単線です。線内を単純往復する普通列車のみで、ワンマン運転を行っています。

 羽衣駅付近を除く大部分が高架化されており、沿線は住宅地となっています。路線は逆S字を描いており、南海本線からあまり遠くないところを走ります。

 南海鉄道が住宅開発や海水浴客輸送を目的として建設した路線で、1918年10月に伽羅橋まで、翌1919年10月には高師浜まで全通しました。1970年2月に高架化されましたが、この際に高師浜駅の駅舎は解体される予定だったところ、地元の熱意により存続したという経緯があります。

(2006年10月7日)

駅一覧

[羽衣]-伽羅橋高師浜

乗車履歴

空港線

 南海本線の泉佐野から分岐し、関西空港にいたる関空アクセス路線で、路線距離は8.8kmです。このうちりんくうタウン-関西空港は、南海が第二種鉄道事業者、関西国際空港株式会社が第三種鉄道事業者となっており、JR関西空港線と線路を共用しています。

 1994年6月15日、関空開港前に関係者限定で開業し、開港日の9月4日に一般客の輸送を開始しました。

(2006年10月6日)

駅一覧

[泉佐野]-りんくうタウン関西空港

乗車履歴

多奈川線

 みさき公園から多奈川にいたる2.6kmの支線で、全線が電化単線となっています。かつては、深日港から徳島方面へ向かうフェリーの連絡路線であり、難波からの直通急行が設置されていましたが、現在は深日港発のフェリーは廃止され、列車もすべて区間運転となっています。

 太平洋戦争中の1944年6月1日、多奈川に移転してきた軍需工場への輸送を目的として、当時の近畿日本鉄道によって開通しました。あわせて、本線にあった深日駅は廃止されています。当時の駅は、集落があった深日町と終着駅の多奈川のみでしたが、戦後になって四国方面へのフェリー輸送をはかるため深日港駅が設けられました。なお、軍需工場の跡地は、関西電力の多奈川火力発電所となっています。

(2005年8月17日)

駅一覧

[みさき公園]-深日町深日港多奈川

乗車履歴

加太線

 南海線の紀ノ川から加太にいたる9.6kmの路線です。紀ノ川が起点ですが、全列車が和歌山市まで乗り入れています。ほぼ全区間が単線で、大半の駅で行き違いが可能になっています。

 沿線は和歌山市の郊外にあたり、工場と住宅が混在する地域です。路線の西半分には海水浴場があり、海水浴客の姿を多く見ることができます。

 加太軽便鉄道によって、和歌山口(現在は廃止)-加太が1912年6月に開業しました。1914年に和歌山口を北島と改称し(新)和歌山口-北島が開業、南海線との連絡を果たします。1930年には全線が電化され、加太電気鉄道と改称します。1942年2月1日に南海に合併し、1944年には松江線の紀ノ川-東松江が開業しました。松江線は当初は貨物専用路線でしたが、1950年7月に旅客営業を開始し加太線の列車は紀ノ川で南海線に接続するようになります。北島系統の路線は、和歌山市-北島が1955年に正式に廃止されて北島支線と改称、紀ノ川-加太が加太支線となります。残った北島支線も、1966年には廃止されています。

(2006年10月7日)

駅一覧

[紀ノ川]-東松江中松江八幡前西ノ庄二里ヶ浜磯ノ浦加太

乗車履歴

和歌山港線

 和歌山市から和歌山港にいたる、港湾アクセス路線です。和歌山港の開発を推進していた和歌山県と提携し、南海が開通させた路線で、旧・久保町駅(現在は廃止)から先は南海が第二種鉄道事業者、和歌山県が第三種鉄道事業者となっています。

 1956年5月6日に、和歌山市から旧・和歌山港(後の築港町、現在は廃止)までが開業しました。その後、和歌山港の移転と木材輸送に対する役割のため、新・和歌山港を経て水軒(現在は廃止)までの区間が開通しています。しかし、水軒まで開通した際には、貨物輸送はトラックに移行しており南海が動く余地はなく、和歌山港以外の各駅も設備の貧弱さなどのために利用客が低迷。和歌山港-水軒は2002年5月25日かぎりで廃止され、和歌山市と和歌山港の間にある3つの中間駅も、2005年11月26日を最後に廃止されました。

 中間駅廃止前は、南海本線から直通する特急・急行は線内ノンストップで、このほかに和歌山市-和歌山港の区間普通列車があり、こちらはワンマン運転となっていましたが、2005年11月27日以降は、運転される列車は特急と急行のみとなっています。和歌山市駅では、普通列車の乗り場に中間改札が設けられており、線内無人駅での乗降客をチェックすることになっていました。路線は、運河や工場、倉庫などが並ぶ殺風景なところを走りますが、工業地域として隆盛を誇る地域とはとても思えず、従業員の通勤輸送に活躍しているようにも見えません。自治体主導の開発計画が頓挫したことが、和歌山港線という路線の命運を決したともいえるでしょう。

(2005年7月22日)
(2006年10月7日、加筆修正)

駅一覧

[和歌山市]-×久保町-×築地橋-×築港町和歌山港

×△水軒

(注)△は写真未掲載駅です。

乗車履歴

×貴志川線

 JRの和歌山(和歌山市ではありません)から東へ進み、貴志へいたる14.3kmの路線で、全線が単線です。もとは、日前宮や伊太祁曽神社などへの参拝輸送を目的に建設されました。2両のワンマン運転が基本となっており、おおむね30分間隔で、全列車が各駅停車です。本線とも高野線とも接続しない、まったくの“離れ小島”で、電圧も600Vのままであり、このために旧型の車両が活躍する舞台として知られてきました。現在にいたるまで「スルッとKANSAI」のエリアにも入っていません。

 和歌山の市街地は紀勢本線より西側にあるため、あまり人口密度が高い地域ではありませんが、それでも岡崎前付近までは、人家がかなり多い中を進みます。車庫があり、ローカル私鉄の拠点らしさが漂う伊太祁曽を過ぎると、しだいに山の中らしい風情になっていきます。

 山東軽便鉄道によって、1916年2月15日に大橋-山東(現・伊太祁曽)が開業したのが始まりです。1917年3月16日には中ノ島-大橋が開通しますが、紀勢本線の東和歌山駅開業に伴い、1923年には中ノ島-東和歌山が廃止されました。1931年4月28日には和歌山鉄道と社名を変更しています。1933年8月18日には貴志まで開業し、この時点で現状の路線が完成しています。1957年11月1日には和歌山電気軌道に合併し、さらに1961年11月1日には南海電気鉄道に合併して、現在にいたっています。

 南海は、2003年10月に、沿線自治体に対して路線廃止を具申しています。その後、2005年10月1日を予定日として営業廃止届を国土交通省に出しており、沿線自治体で対応策を模索しています。沿線住民の間では鉄道存続希望の声が大きいものの、廃止反対の署名活動期間中の乗客数が対前年度比で減少している状態では、説得力に乏しいといわざるを得ません。和歌山市が、第3セクター鉄道による存続を否定していることもあり、前途は暗いといえましょう。

(2004年12月29日)

 2006年4月1日、全線が岡山電気軌道系の和歌山電鐵に譲渡されました。

(2006年10月7日)

駅一覧

×△和歌山、×伊太祁曽、×△貴志

(注)△は写真未掲載駅です。

乗車履歴

鋼索線

 高野線の極楽橋から高野山を結ぶ、全長800m(水平長)、高低差330mのケーブルカーです。全線が単線で、路線の中ほどで行き違いが行われます。なお、高野山駅は高野町の中心部からはやや離れており、路線バスでの連絡となります。

 高野山電気鉄道によって、1930年6月に開業しました。観光路線であるだけでなく生活路線としての面もあるため、戦時中も運行が続けられました。

(2006年10月7日)

駅一覧

[極楽橋]-高野山

乗車履歴

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