かつて列車交換が可能だった名残のある駅ですが、現在は駅舎側の片面ホームのみが利用されています。使われなくなった旧下りホームは、庭かはたまた広告置き場かという状態になっています。
しっかりした駅舎があり、改札の上には「鼎駅」と大書してあります。画数が多くつぶれやすい字ではありますが、これなら文句なしにわかりやすいだろう、ということでしょうか。はたまた、鼎という地名のアピールも兼ねているのでしょうか。
かつて列車交換が可能だった名残のある駅ですが、現在は駅舎側の片面ホームのみが利用されています。使われなくなった旧下りホームは、庭かはたまた広告置き場かという状態になっています。
しっかりした駅舎があり、改札の上には「鼎駅」と大書してあります。画数が多くつぶれやすい字ではありますが、これなら文句なしにわかりやすいだろう、ということでしょうか。はたまた、鼎という地名のアピールも兼ねているのでしょうか。
集改札は行われていませんが、乗車券類の委託販売が行われており、窓口で切符や定期券を買い求める人が見られました。かつての手荷物扱い窓口の跡があるほか、比較的ゆったりした待合室もあり、古典的な駅のスタイルになっています。以前は、立ち食いそばのスタンドがありましたが、今では影も形もありません。
駅舎全体のデザインにはさしたる特徴はなく、ひとつだけ真ん中に設けられている突起に違和感がある程度です。しかし、玄関周りの造形が丁寧で、軒には複雑な模様が施されていました。かつてはもっとしゃれた駅舎だったのが、後年の改築で素っ気ないものになったのかもしれません。
駅周辺には、住宅と田畑、工場などが混在していますが、駅が生活の中心地となっているわけではないようで、駅正面の個人商店は店をたたんでいました。駅にいちばん近い営業店舗は薬局だったのですが、この地域において鼎駅はどのような役割を担っているのだろうか、という気になったものです。
確認中。
1875年1月23日に山村、名古熊村、一色村が合併した際に、3村合併であることから3足器である鼎を地名として採用、鼎村となったものです。鼎村は1954年に鼎町になったのち、1884年12月1日に飯田市へ編入されましたが、鼎の地名は現在も使われています。
伊那電気鉄道開通の際に設置されました。
確認中。